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2016年12月17日

「めちゃ2イケてるッ!岡村VSキンコン西野 君の心は。」が挑んだ、本当の確執とは?

「めちゃ2イケてるッ!岡村VSキンコン西野 君の心は。」が挑んだ、本当の確執とは?

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先日放送された「めちゃイケ」は、非常にめちゃイケらしく、子供のころから当番組に楽しませてもらってきた世代としては面白いを通り越して嬉しさすら覚えるほどの内容だった。

しかし今回の企画であるナインティナイン岡村隆史さん・キングコング西野亮廣さんの間に生じた確執をベースにした「君の心は。」はめちゃイケらしい、というひと言では片づけられない、とても現代的な、むしろ「2016年的な核心」に迫る試みではなかったかと思うのである。

そもそもふたりの確執は、岡村さんはラジオでの、西野さんはSNSでの「言葉」が発端かつすべてだった。

まずラジオに関して言えば、一昔前はある意味では治外法権だった。私自身も学生時代にはじめてナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたとき、その自由さとテレビで観ていたイメージにはないタブーに触れる発言に驚いたし、笑ったし、いっそうナインティナインが好きになった。それはタレントにとっては能力の幅を証明することでもあり、テレビではできないことをやれるというモチベーションでもあったと思う。

しかし、今「発言の場所」に治外はなくなった。前後の文脈を知るファンだけに届いていた内容が、掻い摘んだ状態でニュースソースになる。そしてその内容がソリッドであればあるほど拡散される。もちろんそれは単なる悪ではない。タレントパワーの証明でもあるし、逆手にとったプロモーションも可能だと思う。今回はそれがキングコング西野さんにとっては反論すべき内容であったわけだが、またその反論をSNSというそもそも前後の文脈を伝えにくい、かつ感情のニュアンスを掴みにくいツールによって行ってしまい、ますます「事態」が一人歩きした。

もちろん当事者たちの本音や、本当の温度感は私などが知り得るところではないけれども、昨日の「めちゃイケ」の企画はこうした経緯による確執をベースに話題の映画をパロディしていた。しかし、私がさきほどこの企画が「2016年的核心」に迫っていると書いたのは、何もこの売れっ子タレント間に生じた確執を扱っていたからでも、今年の大ヒット映画のパロディをやったからでもない(岡村さん・西野さんのこの難しい企画へ対応する能力の高さには唸ったけれども)。核心に迫っていた理由は、昨今増え続けるテレビ以外の変容するメディアから始まった嘘か真実(まこと)か分からぬこのような「事態」を、テレビで、しかも土曜日夜8時という数千万人が視聴対象となるステージで詳らかに、かつエンターテイメントで解決するという企画だったからである。

テレビはいつからか「公け」としての役割を任されるようになってしまった。何か不祥事のあった著名人もテレビに出てくると大げさに復帰と言われたり、釈明のようなものをさせられたりする雰囲気がある。それは不特定多数の皆様の前に出る、という理屈だと思うけれども、観る側も別に断罪するつもりも権利もないのにそんなモードになることを強いられる雰囲気がある。

「公け」とはお互いにとってそういうことなのだ。まるで中学のときの学級会で取り上げられる議題の当事者とクラスメイトたちのようにお互いが神妙な顔つきになってしまうのである。だが誤解を恐れずに言えば、テレビなど観る側は「興味本位」でいいのである。そして作る側も悪意がないという前提であれば、いかに興味を引くかでいいのである。そんな厳粛なものでなくてもいいのである。

しかしである。それはノスタルジーであり、昔はよかったという話では終われない。よかったとも言い切れない部分があるのも確かなのだ。私自身も頭ではもっと自由でいいと思っていても、いわゆるコンプライアンスというものは無意識のうちに身についており、昔のテレビ番組を今観るとびっくりするくらいにこれはNGだと思ってしまうどころか、理解があるフリをしているはずなのに不快に感じることすらある。それは他者への想像力の成熟とも言えるけれども、結果として良くも悪くもテレビはこれ以上尖れないことは事実であると思い知るのである。

だとしても、面白くなれないということではないのではないか?

コンプライアンスという名の無意識の良心がある以上、それを無理に相手取って世間との間に「確執」を起こしても意味などない。それこそテレビが嫌われてしまう。テレビ番組、特にバラエティ番組が生まれたときから背負う使命はそんなことではないはすだ。そんな方法でなくても「観たいもの」は作れるのではないか。「公け」としての戦い方があるのではないか。先日の「めちゃイケ」はそこに挑んだのだと思う。

2016年のテレビの新しい役割のひとつとして、一人歩きするラジオやSNSの「言葉」が置き忘れた前後の文脈を作り上げた。当事者たちの葛藤の表情を映した。そして届けたいメッセージに向けて意図をもって演出した、編集した。

妙に乾いた一面的な是非や賛否が身の回りに増えてきたなあと思う現代において、そこには私たちが「観たいもの」があった。つまり、出る側と作る側の人柄がちゃんとあった。それは誰も傷つけず、こんなにも面白かった。映像メディアとして、未だ最も多くの人が観る媒体として、その矜持がこもった一時間だった。

土曜夜8時。今週もいろいろあったと思うけど、笑い飛ばせよ。

一貫して「めちゃイケ」に限らずバラエティ番組が生まれたときから背負っていたはずのバカバカしいほどに牧歌的で当たり前の使命が、昨今の乾いたいろいろな「事態」によって実は必要とされているのかもしれない。

(文:オオツカヒサオ)

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