映画コラム

REGULAR

2021年12月10日

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が賛否両論である理由と、それでも観て欲しい理由をいま一度考える。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が賛否両論である理由と、それでも観て欲しい理由をいま一度考える。


セルマの希望は、映画(物語)が終わらないことだった

セルマは、序盤に警察官のビルに自身と息子のジーンが盲目になっていく秘密を打ち明け、そしてミュージカル映画の話をする中で、こう語っていました。

「最後の曲は聴きたくない。グランド・フィナーレが始まって、カメラが上へと登る。それはラストの合図よ。そうなるともうガッカリ。チェコで暮らしていた子どもの頃、名案を思いついたの。最後から2曲目が終わったら、映画館を出てしまうの。そしたら映画は永遠に続くでしょう?」

ラストでセルマはこう歌います。

「愛するジーン、あなたがそばにいる。だからもう、何も怖くない。忘れていたわ。私はひとりぼっちじゃない。これは最後の歌ではないわ。バイオリンの音もしなければ、コーラスもない、ダンサーもいない。これは『最後から2番目の歌』。それだけのこと。ママの言いつけを守るのよ。忘れないで、パンを包むこと」

そして、セルマの絞首刑が実行された後に、幕が閉じて、このようにテロップで表示されました(そしてカメラは上へと登っていく)。

「これは最後の歌じゃない。わかるでしょう。私たちがそうさせない限り、最後の歌にはならないの」

このテロップはセルマからの、この映画を観ている我々「観客」に向けてのメッセージ。この内容を言い換えれば「これを最後と思わなければ、映画(物語)はまだまだ続く」ということでもあるのでしょう。

(C)ZENTROPA ENTERTAINMENTS4, TRUST FILM SVENSKA, LIBERATOR PRODUCTIONS, PAIN UNLIMITED, FRANCE 3 CINÉMA & ARTE FRANCE CINEMA


ラストを表面上だけ捉えれば、セルマ自身が生き延びる選択肢を諦め、しかも絞首刑の瞬間を、首の骨が折れる音までを聞きながら見届けるしかない、という最悪のバッドエンドです。しかし、前述したように、セルマは「愛する息子のために奔走できた」人物であり、自身の弁護費用を返却して息子のジーンの目の手術費用も残すことができました。

では、この映画(物語)の「続き」を具体的に考えてみるとどうなるでしょうか。「息子のジーンは目の手術に成功して幸せな人生を送った」のかもしれませんし、もしくは「手術が失敗してジーンもまた盲目になり絶望する」というさらなるバッドエンドが待ち受けているのかもしれません。

序盤に「最後から2曲目が終わったら、映画館を出てしまうの。そしたら映画は永遠に続くでしょう?」とセルマが語っているその意味とは、映画(物語)が終わらなければ、まだ息子のジーンの「可能性」が残されているからなのではないでしょうか。

セルマは鉄橋のミュージカルシーンで「過去の自分も、未来の自分もわかっている。もうこれ見るものは何もない」などと歌っており、面会に来た親切なジェフに「悲しいことは何もないのよ」とも話していました。セルマは何度も現実から逃げるように妄想のミュージカルに浸っていましたが、自分のたどる結末は「わかっている」し、彼女自身は「それでいい」と思っているのです。

(C)ZENTROPA ENTERTAINMENTS4, TRUST FILM SVENSKA, LIBERATOR PRODUCTIONS, PAIN UNLIMITED, FRANCE 3 CINÉMA & ARTE FRANCE CINEMA


だけど、自分の死後も映画(物語)が続けば、ジーンの物語の結末も、自分と同じような道をたどってしまうのかもしれない。それこそが、セルマが何よりも恐れることだったのでしょう。序盤でセルマがジーンに「なぜ学校をサボるの?マジメに勉強しなさい。学校に行くのは何よりも大切なことよ」と怒っていたのも、息子に真っ当な人生を歩ませるためであったのに違いありません。

この映画を観ている我々観客にとっては、この映画はここで終わりを迎えています。しかし、セルマにとっては終わっていないのです。さっきまで歌っていたのは「最後から2番目の曲」であり、まだ続きはあるし、その歌詞の内容通りにバイオリンの音もしなければ、コーラスもない、ダンサーもいないのでミュージカルのグランド・フィナーレでもない。そうセルマは信じていた。それが、死ぬ間際のセルマの希望だったのです。

また、セルマは妄想のミュージカルに浸っている時、そして(おそらくここでは妄想の中のミュージカルに入り込んでいませんが)最期の瞬間までも、幸せだったと言えるのかもしれません。客観的にみればたとえ現実逃避であっても、彼女が盲目であればこそ、最後に「愛するジーン、あなたがそばにいる。だからもう、何も怖くない」と歌うように、(キャシーが最後にメガネを渡しながら告げた)「心の声を聞く」ようにすることで、「ひとりぼっちじゃない」と思えたのかもしれません。少なくとも、ただただ死の恐怖に支配されていただけだけはないでしょう。

だからこそ、その歌を遮るように、絞首刑の瞬間が訪れることが、残酷で無情でもあるのですが……。最後のテロップで「これは最後の歌じゃない。わかるでしょう」と問われたとしても、事実として、この映画でセルマが死の間際に歌っていたのは最後の曲、「最後から2番目の曲」ではないのですから(エンドロールの曲も含めれば「最後から2番目の曲」なのかもしれませんが)。

しかし、もしもこの映画のラストを観ずに、セルマの名案に従って「最後から2番目の曲(絞首刑に向かうまでの歌にあたる)」時に映画館から出てしまったとしたら……残酷な絞首刑の瞬間を見ずにはいられます。でも、我々観客が映画のセルマの最後を「見届けた」ことからは、単純に言語化ができない、何かを受け取ることができます。それこそ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の大きな意義であり、同時にもっとも「見たくない」ものを見せるラストであるため、賛否両論を呼ぶ最大の理由でもあるでしょう。

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