映画コラム

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2017年01月27日

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く



3:原作漫画は“磨かれる前の原石”だった。


そのように映画で“現実”がクローズアップされたからと言って、宮崎駿は原作で素直に描かれた出会いへの憧れや、純粋な恋の気持ちをないがしろにしているわけではありません。この映画が原作に対してどういうスタンスであるかは、終盤のおじいさんのセリフにも表れています。

「その石の大きな原石があるでしょう。実はそれは磨くと、かえって、つまらないものになってしまう石なんだ。もっと奥の小さいものの方が純度が高い。いや、外から見えない所に、もっと良い原石があるかもしれないんだ」

もちろん、これは物語上では雫の作品作りの姿勢についての言葉なのですが、“磨くとかえってつまらないものになってしまう部分もある”、“すぐに見えないところにも良いところがある”、というのは、そのまま宮崎駿が抱いている原作への気持ちそのものにも思えてくるのです。

おそらく、聖司が言っていた「バイオリンは300年前に形が完成しているんだ。あとは職人の腕で音の良し悪しが決まるんだよ」というセリフも、“完成している作品を、職人の腕でどう魅せることができることができるか”という、宮崎駿自身が課した課題でもあったのでしょう。

ぜひ、映画『耳をすませば』が気に入った方は、原作漫画も読んでみてほしいです。この言葉に表れているとおり、映画が磨かれた宝石とするならば、原作は原石なのですから。そこには、映画では見えなかった“見えにくいけど、もっと良い原石”も見つかるかもしれませんよ。

余談ですが、ちょっとカワイイと思ったのが、おじいさんがこの後に「いやあ、いかん、いかん、年をとると説教くさくていかんな」と言っていること。これはおそらく、作品に明確な問題意識を持たせない、観客それぞれが主体的に何かを得られるようににしなければいけない、という宮崎駿の自戒の念が表れた言葉なのでしょう。説教くさくなってしまった映画なんて、面白くないですからね。

>>>「耳をすませば」原作漫画を読む

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