映画コラム

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2017年01月27日

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く

『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く



4:開発の進んだ都市が舞台だからでこそ……。


宮崎駿と故・近藤喜文監督が掲げた本作の目的の1つには、「都会生まれの人間にとっての“ふるさと”を描く」ということがあったそうです。

原作漫画の舞台は詳細には描かれてはいなかったのですが、映画では京王線の聖蹟桜ヶ丘周辺をモデルとした、写実的な風景が描かれることになりました。

雫が「カントリーロード」の替え歌である「コンクリーロード」を歌うシーンも重要になってきます。

「コンクリートロード、どこまでも、森を切り、谷を埋め、ウェスト東京、マウント多摩、わが街は、コンクリートロード」

“自虐的”とも取れる歌詞ですが、ともかく雫が住んでいる場所は、そんなふうに自然を破壊してできた街なのです(雫が答案用紙に「開発」と書くシーンもあったりします)。

しかし、この映画では環境破壊を批判したりはしていません。この「コンクリートロード」が示しているのは“住んでいる場所がそういうところだ”ということ、そこが雫にとってのふるさとである、という事実だけなのですから。

そして、映画では雫が歩いていく場所の風景を、とても繊細に描いています。コンビニ(ファミリーマート)の光は煌々としていて、裏道を通ったときには湿った空気も感じられ、下界を見下ろすとたくさんの家や町並みがある……そして丘の上には雫も知らなかったお店があり、そこでは「空に浮いているみたい」な光景もあるのです。

こうした背景の描写からわかるのは、今いる場所=開発でできたコンクリートロード=ふるさとが、とても魅力的で、まだまだ知らない素敵な場所もすぐ側にある、ということです(ごちゃごちゃしている家の中でさえも)。現在公開中の『君の名は。』もそうですが、こうして現実にある風景をあえてアニメで描くことで、そのような“美しい風景”を“現実でも探してみたい”という気持ちが生まれるのです。

自然を切り崩して作られたような都会であっても、日常生活の何気ないところにたくさんの気づきがあり、ちょっと散歩にも出かけたくなる……そんなところも、映画『耳をすませば』の大きな魅力なのです。




© 1995 柊あおい/集英社・Studio Ghibli・NH


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