2018年04月07日

追悼・高畑勲監督、最後の作品『かぐや姫の物語』は語り継がれるべき傑作だ

追悼・高畑勲監督、最後の作品『かぐや姫の物語』は語り継がれるべき傑作だ

あまりに突然の報せだった。スタジオ・ジブリという枠組みの中で宮崎駿監督とともに日本のアニメーション界を牽引し続け、国内だけでなく世界から賛辞を集めていた高畑勲監督が逝去された。

気づけば82歳という年齢で、それを考えれば「仕方がないのかもしれない」と冷静に考えてしまうが、観客──いやファンの心とは残酷なもので、「まだまだ新作が観たかった」とこれからの活躍にも期待を向けてしまっていた。けれど、もうその願いは叶わない。高畑監督の最後の作品は、2013年11月に公開された『かぐや姫の物語』となった。

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高畑勲の魂が注ぎ込まれた作品


『かぐや姫の物語』は、製作段階から話題を振りまいていた。初期の段階では宮崎駿監督作品の『風立ちぬ』と同時公開を予定し、2人の巨匠によるジブリ作品が同時に封切られることに多くのファンが期待を抱いたはずだ。しかし、クリエイティビティの追求を目指した高畑監督の方針により『かぐや姫の物語』は深刻な製作遅延に。結局『風立ちぬ』との同時公開はキャンセルになってしまい、高畑監督の解任すら視野に入れられたという。

そんな苦難の道を乗り越えて公開された『かぐや姫の物語』を初めて鑑賞したときの衝撃は、今でも忘れられない。

筆者が序盤で感じた印象は、「これがジブリのアニメ映画なのか?」という疑問だった。「竹取物語」という古典的作品を原作にしているとはいえ、原作が持つ背景を“ここまで”映画に落とし込む必要があったのか──、と。高畑監督が本作で用いたタッチは、まるで絵筆を走らせたようなアニメーションだった。繊細なか細い線から力強く描き殴ったような太い線まで、高畑監督はアニメーションの常識を敢えて外すように、まるで紙芝居を読み聞かせるように観客に提示したのだ。

確かにポスタービジュアルや予告編で、高畑監督が選択したタッチを確認していたはずだった。そ れが、どういうことだろう。いざ本編が始まると、全く違う印象を受けたのだ。水彩画のように淡い色彩で描かれた人物や背景描写は、現代の先端的なアニメーションとは真逆をいく表現方法だ。けれど、それがとても居心地が良い。視覚を通して温もりを感じることもあれば、まるで本当に水を浴びているかのようにひやりとした冷気が肌に触れていく感覚もあった。

ポスターや断片的な予告映像では感じられなかった、まるで作品そのものが息をし生きているかのような柔らかさがそこにはあった。それだけではない。あえて余白を残すように情報は最低限にとどめて描き、あとはまるで、そっと高畑監督から手渡されて「残りの余白はあなたが埋めてください」と言われているような感覚。すべてを観客に見せ てしまうのではなく、観客とともに作品を紡ぎ上げていくような錯覚を感じたのだ。それは、『かぐや姫の物語』という作品を通して高畑監督と対話している感覚に近い。

あえて現代に則した表現にするのではなく、製作が遅れに遅れてでも高畑監督がその筆致にこだわった理由とはどこにあったのか。映画にただただじっと食い入るように見入っていると、そこには、作品のテーマの1つである「生きるという意味」にあったのではないかと感じる瞬間があった。デジタル技術を投入しながらも手描きの質感にこだわったのは、その筆致に込められる高畑監督の“魂”のようなものがあったのではないか。70歳をすぎ、もしかすると高畑監督の中で「最後の作品」になるかもしれないという思いがあったかもしれない。ならばと、高畑監督はアニメーションという世界で生きる証を、1本1本の線に注ぎ込んだのではないか。血管が通うように温もりを帯び、ときには怒りに飲み込まれたような、高畑勲という人生がそのまま息づいているかのように。

「生きる意味」を問いかける


心血を注いだであろう作品だからこそ、物語の中で躍動するかぐや姫は高畑監督にとってさぞや可愛い存在だったであろう。竹の中から生まれ出でた姫をそっと手に包み、天からの授かりものだと信じ、媼とともにそんな彼女を見守り愛し続けた翁というキャラクターには、どことなく高畑監督と同じような目線を感じてしまう。

ところで翁は、残りの生涯を姫の幸せのために使おうと決め、故にその愛情は姫を束縛してしまう形になる。翁自身が彼女から生きる意味を奪ってしまうのは、まさにこの作品における皮肉の表れだ。生命と自然に囲まれた山を離れ、都で窮屈な思いを押しつけられた姫の姿は、観ているこちらの胸が痛くなるほどに生命力を欠いた姿だった。

翁が姫を想う気持ちはやがて「身分の高い男性と結婚することが姫の幸せ」という独りよがりのものにまでなってしまい、姫との軋轢を深くしてしまう。ぷつりと糸が切れたように、宴を飛び出し上等な衣を脱ぎ捨て漆黒の都を駆け抜けていく姫の形相は、それこそ“鬼”のようだ。やはりその姿は生命力とは無縁であり、この作品の本質とは真逆に位置する もの。生きることの辛さ、窮屈さが徐々に姫から地上に降り立った意味を奪っていってしまう展開は、高畑監督にとっても辛いものだったはず。それでも臆することなく物語を綴り上げていく高畑監督の眼差しは、それこそ鬼気迫るものだったに違いない。

「生きることの意味」をかぐや姫に投影しながら問う本作では、その意味を姫本人が見失ってしまったことで大きな転換点を迎えることになる。「もうここにはいたくない」。そんな悲痛な姫の叫びが「月」へと届いてしまい、彼女は月へと帰らなければならなくなるのだ。

中盤までは姫が地上で過ごす日々を丹念に描いていたが、このターニングポイントからの展開は圧巻のひと言だった。翁が本当の意味で姫と向き合いぼろぼろと流す涙。幼少期からの慕い人「捨丸」との再会。すべては取り返しのつかない状態にまできてしまったことで、加速度的に姫を苦しめていく。その刹那に見せる捨丸との逢瀬は、まさにイマジネーションの解放であり、いかに高畑監督のビジョンがどれだけ年を重ねて も褪せることのない輝きを放っているかが伝わってくる渾身の名シーンだ。世の理をも越えて描かれる2人の美しいランデブーは、観客の胸まで鷲掴みにするはずだ。

そんな展開が描かれてからの、姫を迎えに天人が地上へとやってくる絶望感。どれだけ兵力・武力を取り揃えても歯が立たないどころか微塵も触れることすらできない描写は、絶対的な力を目の前にした終末感すら感じさせるほどだ。

何よりも驚かせるのは、そんな場面で流れる「天人の音楽」の陽気さだろう。放った矢は花へと変わり、次々と意識を失っていく兵士たちが描かれる中で奏でられているのは、重々しさもなく、淡々としているでもない、祝祭にも似た享楽的な音楽なのだ。その音が耳に飛び込んできたときには「これほど映像と“合わない”音楽があるなんて」と驚いたほど。けれど、どういう訳か天人たちの進攻とともに、いかにそのテーマが崇高であるかがすぐに伝わってくる。 生きる意味を模索し続けた姫に対し、天人たちは表情ひとつ変えようとせず、その顔には悩みもなく、悲しみもない。天人たちを満たしているのは“幸福”そのものであり、そこに人類がつけいる余地はこれっぽちもない。そこで高畑監督は本編の作曲を依頼した久石譲に、天人たちの音楽は「幸せな音楽でなければならない」とオーダーしている。

人類にとっては破滅にも近い状況が描かれ、姫の周囲の人たちにとっても「命に代えてでも」という場面であるにも関わらず、そこで流れ続ける音楽はこの世の幸せを詰め込んだような楽曲なのだ。そのあまりの“ギャップ”が、姫との絶対的な別れを想起させて一気に感情の波となって押し寄せてくる感覚は、これまで感じたことのないものだった。

自ずと涙があふれ、それは何度劇場で鑑賞しようとも同じように巨大な波となってぶつかってきた。「ここまで感情を揺さぶられる作品に出会えるなんて」という喜びと、底知れぬ高畑監督の創造力に対する感嘆の思いが一緒くたになって胸に迫ってくる。そうして、毎回『かぐや姫の物語』が持つ世界観の奥深さをまじまじと眺めることになるのだった。

まとめに代えて


残念ながら本作は50億円超えの製作費を回収するに至る収入を上げることは叶わなかった。それでも、そういった俗的な尺度ではなく(そして負け惜しみでもなく)、1つの作品として対面したときの豊饒なイマジネーションは、必ずや観る者を圧倒するはず。

そんな作品に全力で魂を注いだ高畑監督は、鬼籍に入られてしまった。もう、「高畑勲監督の新作が観たい」という願いは、決して届くことはない。ならばせめて、高畑監督が最後に遺した作品をこの先もずっと大切にし続けたいと思う。

高畑監督が観客のために残した“余白”を、これからも先作品を通して高畑監督と“対話”しながら、ほんの少しづつでも埋めていきたいと思う。『かぐや姫の物語』が世に残り続ける限り、高畑監督の魂が消えることはない。

(文:葦見川和哉)

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