『任侠学園』が痛快エンタメ作品となった「3つ」の理由! 原作との違いとは?



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



人気コミックを映像化した『きのう何食べた?』の弁護士役から、『空母いぶき』で見せた自衛官役まで、毎回幅広い役柄に挑戦しては、その度に見事に自分のものにしてきた西島秀俊。

そんな彼が西田敏行とW主演を務めた『任侠学園』が、遂に9月27日から劇場公開された。今回はコミック原作ではなく、今野敏による小説「任侠」シリーズの映画化となる本作。魅力的なキャスト陣が、果たしてどんな騒動を繰り広げるのか?

ヤクザが私立高校の理事長に就任し、赤字経営の学園を立て直すために奮闘するという設定だけで既に面白そうな本作だが、気になるその内容と出来は、果たしてどのようなものだったのか?



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



ストーリー


困っている人は見過ごせない、義理と人情に厚すぎるヤクザ“阿岐本組”。
組長(西田敏行)は社会貢献に目がなく、次から次へと厄介な案件を引き受けてしまう。今度はなんと、経営不振の高校の立て直し。いつも親分に振り回されてばかりの阿岐本組NO.2の日村(西島秀俊)は、学校には嫌な思い出しかなく気が進まなかったが、“親分の言うことは絶対”! 子分たちを連れて、仕方なく学園へ。待ち受けていたのは、無気力・無関心のイマドキ高校生と、事なかれ主義の先生たちだった――。


予告編


理由1:実は単なるコメディ映画じゃない!



『任侠学園』というタイトルのイメージから、映画『セーラー服と機関銃』や『任侠ヘルパー』などの過去作品を連想される方も多いと思われる本作。

予告編から受ける印象では、高校の経営に乗り出したヤクザを巡るコメディと思えるのだが、確かに笑いの面で原作小説よりも今回の映画版がかなりパワーアップしているのは、間違いない。

だが後述する通り、現代の学校教育が抱える様々な問題を描こうとするその姿勢が、本作を単なるヤクザと学校のカルチャーギャップ・コメディに終わらせていないのも事実なのだ。

そう、やはり本作の大きな見どころは、コメディとシリアスの間を絶妙に行き来して偏らせない、その抜群のバランス感覚!



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



素人には絶対に手を出さず、暴力団とは違って任侠道を守って行動する阿岐本組の組員たち。彼らを演じるキャスト陣の演技が、外見や言葉使いの乱暴さとは真逆な内面とのギャップによる可笑しさを見事に表現してくれるので、観客もこの愛すべき組員たちの行動に自然と共感・応援したくなるのだ。

保護者のクレームに怯える教師や無気力な生徒など、現代社会が抱える深刻な教育問題に阿岐本組の面々がどんな風穴を開けてくれるのか? その奮闘ぶりと痛快な結末は、是非劇場で!

理由2:現実の教育現場が抱える問題を描く作品!



実は原作小説には映画版ほど強いコメディ要素は無く、むしろ現実の教育現場が抱える様々な問題点とその原因が、日村の目を通して描かれることになる。

例えば原作には、タバコを吸っていた生徒に日村が注意をした際、相手の生徒の反応が無反応で手ごたえがないのに対し、日村が「不気味だ」と感じる描写が出てくる。その反応の理由・原因として彼が気付くのが、「きっと大人に注意されたことが無いのではないか?」という点。

更に凄いのが、日村が生徒を注意しても彼らが「死んだ魚のような目」で彼を見つめている! と記述された箇所だった。これに関しても、「こいつらは大人を恐ろしいと思っていないのだ。きっと周りの大人たちは、ご機嫌を取ることしか考えなかったのだろう」と、日村は実に的確な分析を下している。

こうした原作での描写は、行き過ぎたコンプライアンス問題による規制や、親子や教師と生徒など、近しい人間関係の崩壊を予感させて、読んでいて思わずゾッとしたほど。

任侠学園 (中公文庫)



だが、こうした現実的な描写があることで、次第に生徒たちが目上の者に対する敬意や感謝の気持ちを覚え、話し方まで変わっていく成長の過程が、より際立つことになるのも事実。

特に、相手の名前を憶えないと大変なことになるヤクザ社会の習慣から、生徒たち一人一人の名前を覚えている日村に対して、「普通の先生は生徒の名前を覚えていない。先生は教科書と黒板しか見ないんだ」と生徒たちが答える描写は、決して今の学生や若者が問題なのではなく、周囲の大人や社会・学校など、その原因はより深く複雑であることを我々に教えてくれるのだ。

このように、より客観的に学校や生徒たちを観察している原作の日村だが、映画版では演じる西島秀俊のイメージに寄せて、より生徒たちに近い目線から彼らの問題や悩みに向き合う存在として描かれることで、更にその魅力を増しているのは見事!



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



乱暴で言葉づかいは荒いが、自分よりもはるかに年下の生徒に対しても、「ありがとう」と躊躇なく言える日村のキャラクターは、現代のギスギスして余裕のない人間関係に逆行するようにも見えるが、「ありがとう」と言われた生徒側が戸惑うと同時に、本来の高校生らしい表情を取り戻すという描写には、こんな基本的なことがおろそかにされている、現代社会の問題点が見事に描かれている気がした。

原作ではシリーズの二作目に当たる、この『任侠学園』。映画版を観て興味を持たれた方は、是非原作小説の方にも触れてみて頂ければと思う。

理由3:西島秀俊の魅力が満載!



ヤクザの凄みを匂わせながらも、生徒たちに対するぎこちない接し方や、厳しい中にも時折見せる思いやりなど、どんな役でも自分のものにしてしまう西島秀俊の死角の無さが存分に味わえる点も、この『任侠学園』の大きな魅力と言える。

どんな困難な状況にあっても、絶対に自分たちに課した掟を曲げない日村の姿は、周囲の大人に失望し自分のことしか考えられないでいた生徒たちの心にも、次第に温かな感情を甦らせることになる。



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



決して素人には手を出せない阿岐本組の掟を頑なに守る日村が、どうやって無気力な生徒たちの心を動かし、敵対する半グレ集団や暴力団に対抗するのか? その男気あふれる行動は必見!

特に、普段の厳しい表情を指摘された日村が無理やり笑顔を作ろうとするシーンは、西島秀俊の演技力が堪能できる名シーンなので、お見逃しなく!

最後に



ヤクザが高校経営に乗り出すという意表を突いた設定や予告編の内容から、ほのぼのした人情コメディを予想して鑑賞に臨んだ本作。

だが前述した通り、笑いに隠して現実の教育問題を描こうとするその姿勢には、今の高校生や教育の現場に一番足りないものとは何なのか、本当に問題なのは親や大人の方ではないのか? そんなテーマが浮き上がってくる気がしてならなかった。

例えば、学校の経営状態改善のために特技を持つ生徒をコンテストで優勝させて、学校の知名度を高めようという日村たちの計画が実行に移され、その結果もちゃんと描かれる映画版には、生徒一人一人と向き合って彼らのありのままを認めようとする、日村たちの人間性がよく表現されている。

更に、たとえ思うような結果を出せなくても、新しい自分に生まれ変わるための第一歩を踏み出す生徒たちを、全力でバックアップする日村たち阿岐本組の面々の真剣さが、いつしか観客の感動を呼ぶことになる展開も、非常に上手いのだ。



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



残念ながら様々な現実の問題が絡んでくるため、ヤクザならではの自由な言動や発想が、堅苦しい学校の規則や学力偏重をぶちこわす! という単純な展開には着地しない本作。

だが決して暴力に頼ることなく、生徒たちからバカにされたり無視されながらも、相手を対等な人間として扱おうとする日村たちの姿勢が、やがて教師や生徒たちの心を動かす展開は、現実の社会があまりに堅苦しく閉塞的なだけに、観客の心により深い感動を残すものとなっているのも事実。

映画の冒頭から登場する、昔ながらの任侠に生きる阿岐本組が、いかに地域の人々に愛され共存しているかの描写も、金儲けのためなら手段や人の不幸を気にしない敵対組織との違いや、阿岐本組の面々が信頼できる者たちであることを、的確に表現しているため、教師や親から人間として必要な指導や躾を受けてこなかった生徒たちに、日村たちが時に厳しく、時に礼儀と愛情を持って生徒に接するその姿が、観客にも自然と受け入れられることになるのだ。

加えて、本作の設定や展開に説得力を与えるのが、組長と子分5人という弱小一家の阿岐本組が、弱肉強食の極道の世界で何故周囲から一目置かれたり、生き延びているのか? その理由が次第に観客にも分かってくる点だろう。

組長の持つ抜群の情報収集能力と危機回避スキルの高さ、そして組織内での交友関係の広さにより、彼らが昔ながらの任侠を重んじる一家として生き永らえているという理由は、暴力だけに頼らない生き方を選択した、彼らの男気を感じさせて実に見事!

更に日村が昔、阿岐本組に拾われたエピソードで見せる組長の懐の深さや、大事なところで的確な指示や助言を出してくるその存在は、演じる西田敏行のキャラクターも加わって、組長の底知れない実力や貫禄を観客に伝えてくれるのだ。



©今野 敏 / ©2019 映画「任俠学園」製作委員会



ちなみに原作小説では、映画と違って阿岐本組の組長自身が学園経営に乗り出すことを決めたり、北村という阿岐本組の組員見習いが出てきたりするのだが、この辺りは映画版では大きく変更されている。

実はそれ以上に大きいのが、桜井日奈子演じる小日向美咲の存在だ。原作での彼女は映画版のキャラクターとは大きく違っており、親友との関係性やその行動も映画版とはかなり異なっている。

得意な分野を持つ生徒たちを大会で優勝させて、学園の名声を高めようとする日村たちの計画に関しては、小説も映画版も同じなのだが、原作小説ではエピローグで囲碁大会の結果が明らかになるだけで、生徒たちが大会に出場する以前の段階で、日村たちが学園経営から手を引いて学校を去らなければいけない展開を迎えることになる。

この部分を踏まえて考えると、映画版で描かれた「目標に対して挑戦した結果がどうなろうと、努力したその経験は決して無駄では無い」というテーマの持つ意味が、より深い意味を持つことがお分かり頂けると思う。

決して予告編から受ける印象のような、とぼけた笑いがメインの作品では無い本作。

複雑過ぎる仕組みや問題点に対する諦めの中で、次第に身動きが取れなくなっている教育現場の様々な問題を、日村たち阿岐本組の面々が昔ながらのやり方で次々に解決していく痛快エンタメ作品なので、全力でオススメします!

(文:滝口アキラ)

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