映画コラム

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2021年04月01日

『ブータン 山の教室』レビュー:スケールが違いすぎる大自然の中の教師と生徒の麗しき心の交流

『ブータン 山の教室』レビュー:スケールが違いすぎる大自然の中の教師と生徒の麗しき心の交流



■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」SHORT

邦題やポスターワークなどから、そこそこ素朴で良い映画なのだろうなといった予想はしていました。

……が、これがとんでもない勘違いで、そこそこどころか実に素晴らしい、全世界の(特に文明が発達して久しい先進国の人たちにこそ!)見ていただきたい傑作でした!



ぐうたらな今どきの若手教師が田舎の学校に転勤し、その地に馴染みながら人間的に成長していくというストーリーそのものは、日本映画でもよくあるパターンです。

しかし、あまりにもスケールが違いすぎる!

というか、あまりにも素朴かつ雄大な大自然を目の当たりにすることで醸し出される豊潤な想いの数々は、とかく物質主義に侵されてスレきって久しいこちらの思考回路を一気に洗い流し、新鮮で初々しい想いを再び呼び起こしてくれるのです。



現代のブータンが日本とさほど変わらないくらいの文明を既に保ち得ており、若者文化もそこそこのものであるという事実にも正直驚かされますし、主人公ウゲン(シェラップ・ドルジ)が最初にバスで到達するガサの町にしても、「うちの田舎に似ているな」くらいの情緒はあります。

しかし、そこからがすごい! すごすぎる!

田舎だ僻地だといった言葉が空々しくなるほどの大自然の驚異の中をおよそ8日間も歩き続け、やがてケータイ・プレーヤーの電池は切れることで、ウゲンはそれまでずっと着けていたヘッドホンを外して否が応でも自然がもたらすさまざまな音に耳を傾けざるを得なくなっていきます。



かくして映画が始まって30分経っても、まだ目的地に到達しない!?

しかし、そこまででもう既にメチャクチャ面白く、その景色を見ているだけで感動してしまう!

そうこうしているうちに、ようやくヒマラヤ山脈の標高4800メートル、人口56人の村ルナナに辿り着いたウゲンは、教師として地元の子どもたちと接していきます。

この子どもたちがまた全員、こちらが発狂しかねないほどに純朴で可愛らしく、それはおよそ今の日本ではお目にかかれない奇跡的なものといっても過言ではないほど!



紙も黒板もない教室、トイレも紙ではなく葉っぱを使い、燃料は乾かしたヤクの糞、ソーラー・システムの電気もついたりつかなかったりで、もちろんテレビもラジオもネットもあるはずもない世界、子どもたちは自動車という存在すら知りません。

しかし、そこに住む村人たちの何とも豊かな表情よ!

あえて文明的にその地に似合うものをがあるとすれば、それはアコースティック・ギターなのでした。

映画の後半は、もう眩暈がするほどに壮麗なる大自然の中、主人公と生徒たちの麗しい交流が、あたかも木下惠介監督の名作『二十四の瞳』(54)から戦争や貧困の悲劇を抜いたかのようなユートピアとして描かれていくあたり、もう至高の幸福とでもいった想いに包まれること必至!

ふと、フランク・キャプラ監督のメガホンで映画化もされているジェームズ・ヒルトンの小説「失われた地平線」の中に登場するユートピア“シャングリラ”とは、もしかしたらこういうところなのかもしれないと、見ながら連想してしまう瞬間も幾度かありました。

(シャングリラは「ヒマラヤ山脈西から崑崙山脈へ向かって8500メートル以上の高峰の麓の霧が漂う谷間」に存在すると記されています)



しかし、どんな物事にも終わりがあるように、この映画にもラストというものが訪れます。それがどういう結末を迎えるかは直接ご覧になっていただきたいところですが、それ以前に、今の私たちがどこかで見失ってしまっている想い、即ち人は本来他の生き物たちと同じように、大自然とともに生き続けるべき存在であることを改めて痛感させられることでしょう。

この稀代の傑作を生みだしたブータン出身のパオ・チョニン・ドルジ監督は写真家としても著名ながら、本作ではあえて撮影をジグメ・テンジンに委ねつつ、双方の密なコミュニケーションによって圧倒的な映像美を具現化。

本当に、観客の人生すら大きく揺るがしかねないほどの傑作であることは、その画を見るだけで一目瞭然なのでした!

(文:増當竜也)

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