アニメ

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2021年09月11日

あまのじゃく的「鬼滅の刃」:結局派手に「遊郭編」へ期待を寄せる

あまのじゃく的「鬼滅の刃」:結局派手に「遊郭編」へ期待を寄せる



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2019年と2020年を席巻したと言っても過言ではない「鬼滅の刃」。私はそのブームにいまいち乗れなかった人間です。

もちろん映像のクオリティの高さやキャラクターたちの個性、残酷でいてやさしい物語に魅力は感じていました。なにより映像の力がすごい作品にはこれまでも簡単にのめり込んできました。しかしあれだけクオリティがとんでもないと日本中が熱狂していた「鬼滅の刃」には、のめり込むまでには至らなかったのです。

「長男のプライド」がきつかった……頃もありました



のめり込めなかったと言いましたが、正確に言えば途中で少し冷めたという表現が正しいように思います。なんなら最初、炭治郎が禰豆子をおぶって雪山を歩くシーンの映像の美しさに息をのみ、とんでもないアニメが始まったという予感すら覚えていました。

しかし私は炭治郎が戦いで負ったケガの痛みに耐えている時に発した「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」というセリフがどうも受け入れられなかったのです。

おそらくその言葉を受け入れられなかったのは私が長女で、親戚から「将来はお婿さんをもらって、この土地を守っていかなきゃね」と当たり前のように言われたからだと思います。こんな地方在住ライターの事情は、炭治郎にとって一切合切関係ないことでしょう。しかし作品への熱を冷まさせるくらい、「長子は我慢してなんぼ」というセリフがしんどかったのです。

ただこのセリフも冷静になって紐解けば、舞台となっている大正時代を生きた長子の生き様を丁寧に描いた結果であり、かつ炭治郎が自身を奮い立たせるための大切なプライドだったのだと気づかされました。

今でこそ家や血のつながりに縛られない生き方ができるようになりましたが、大正は中世から続く家父長制のDNAを残した「家制度」があった時代。明治維新で職業選択の自由が保障され個人が輝ける時代になろうとしていたにもかかわらず、家族という縛り、長男が家を継ぐという慣習は抜けきれなかった時代です。



雪山の奥深くに家を構えている、竈門家。映像を見るにその周囲には他の家はなく、家族以外との接点は炭を売りに街へおりる時だけ。つまり家族が絶対、他の社会を知る必要性をあまり感じていなかったのではないかと考えられるのです。しかも竈門家は見るからに家族が互いを思いやる、やさしい一家。炭治郎がそんな家族を守れることに幸せを感じるのは、至極当然のことだったのでしょう。

そんな幸せを一瞬にして鬼に奪われ、そして唯一残された家族も鬼になった。そんな残酷な現実を打破する道が「自分が強くあり続けること」にある。となれば「長男だから」と自分を鼓舞することで家族との幸せな日々を、そしていつか来ると信じている人間に戻った妹・禰豆子との未来を常に頭に思い描けたのでしょう。

このセリフは、めげてもおかしくないくらい残酷な現実を炭治郎が乗り越え続けるために必要なエネルギー源であり、家族愛の象徴だったのだと思うと、一瞬でも「長子に責任押し付け野郎」と思ってごめんなさいという気持ちでいっぱいになるのです。

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(C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

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