映画「スモーク」を彩る人々(前篇)

■「役に立たない映画の話」

スモーク 02

(c) 1995 Miramax/N.D.F./Euro Space

「スモーク」が恵比寿に帰ってくる!!

ポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」をウェイン・ワン監督が映画化した1994年作品「スモーク」は、我が国でも日本ヘラルド映画の配給で、1995年10月7日から恵比寿ガーデンシネマ(現・YEBISU GARDEN CINEMA)を中心に公開され、好調な成績を上げた。

1990年のブルックリンを舞台に、特に大きな事件が起きるでもなく、一軒の煙草店を舞台に、そこに集う男たちの悲喜こもごものドラマを静かに描いたこの作品は、現在でも名作として語り継がれている。その「スモーク」が、初公開時と同じ恵比寿の映画館に帰ってくる! 20余年ぶりに見る人も、初めて見る人も、この映画の持つ温かな雰囲気に魅了されることだろう。

井関惺プロデューサーにとっての「スモーク」。

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『スモーク』製作総指揮・井関惺氏

この日米合作映画「スモーク」は、ひとりの日本人がエグゼクティブ・プロデューサーとして参加しているが、そもそもこの映画が製作される発端は、彼がウェイン・ワン監督と出会ったことから始まる。

1991年夏、映画のデベロップメント(開発)とファイナンス(資金調達)を手がけるNDFを経営する井関惺は、ユーロスペースの堀越謙三社長の紹介で、銀座東武ホテルでワン監督と面会する。

当時ワン監督は、82年に監督した「Chan is Missing」がカルト的人気を博し、87年には長編商業映画「スラムダンス」を監督。この作品は日本ヘラルド映画の手で88年7月に日本公開されていた(銀座シネパトスのオープニング作品!!)。

この時ワン監督は別の目的で来日していたが、井関と面会するに当たり、いくつかの企画を提案した。そのひとつにポール・オースターが書いた「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」があった。オースターの大ファンであった井関は、ニューヨーク・タイムスに掲載されたこの記事の切り抜きをワン監督から見せられた時、すぐささま「製作したい!」と口走っていた。

製作パートナーは、ミラマックスに決定。

ウェイン・ワン監督がアメリカに帰り、オースターにシナリオ執筆を依頼。だが井関はこの映画を実現するために必要な、アメリカの製作パートナー探しに手こずっていた。

ソニー・ピクチャーズ・クラシックスから断られた井関は、知人のトニー・サフォードがミラマックスに入社したことを聞きつけ、彼を通してミラマックスの社長であるハーヴェイ・ワインスタインとコンタクトをとり、ハーヴェイは「スモーク」製作を了解する。

井関は92年の「クライング・ゲーム」でミラマックスと組んでいたが、ハーヴェイ・ワインスタインのキャラクターと仕事ぶりには難儀した記憶があった。トニー・サフォードは「ウェイン・ワンとポール・オースターの組み合わせを考えられるお前は最高だ」と井関を讃える。製作費は500万ドルであったが、最終的には550万ドルになった。

井関=ウェイン・ワン監督VSハーヴェイ・シザーハンズ!

撮影は井関が必須と考えたブルックリンでのロケーションが実現。出演者は当初のティム・ロビンス、トム・ウェイツからハーヴェイ・カイテルとウィリアム・ハートに変更されたが、出演交渉中、行方不明になったトム・ウェイツが「迷惑をかけたお詫びに」と楽曲を無償で提供してくれるというプレゼントもあった。この曲は「スモーク」のラストで、印象深く使われている。

撮影が終了し、編集というプロセスに進んだものの、井関を悩ませたのは、やはりハーヴェイの仕事ぶりであった。

「ハーヴェイ・ワインスタインは、シザーハンズの異名を取る男。とにかく編集をしたがるので、僕も注意しました。『スモーク』のファイナル・カット権は僕とハーヴェイ、ウェイン・ワン監督の3人が所有し、3人の全員が合意すればOK。ひとりが反対したらワン監督が再度編集する。モニター試写で100人の観客に見せて、70点以下だったらミラマックスが修正するなど、細部に渡って契約書で細かい取り決めをしました」(井関)。

時にはハーウェイの異論に井関が賛同し、ワン監督が恨みの目で井関を睨むなど、様々な戦いとかけひきの末、「スモーク」は完成した。

ベルリン映画祭出品にこだわった、本当の理由。

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(c) 1995 Miramax/N.D.F./Euro Space

「映画が完成したら、皆からカンヌ映画祭に出品しようと言われましたが、僕は最初からベルリン映画祭への出品を決めていました。映画の完成予定は94年12月末。カンヌもベルリンも締め切りを過ぎているにも関わらず“待ちます”と言ってくれました。ただ、95年のカンヌ映画祭には、ヘラルド時代の上司である原正人さんがプロデュースした『写楽』が出る事情もありました。実を言うとベルリン映画祭は2月、カンヌは5月に開催されます。我々としては、製作費を会社で立て替えていて、それは映画が完成しないとミラマックスから入金しないのです。ですので、銀行から借り入れをしていた都合もあって、早く完成したかったんです(笑)」(井関)

ベルリン映画祭で披露された「スモーク」は拍手で迎えられ、同映画祭の銀熊賞(審査員特別賞)を受賞する栄誉をワン監督にもたらし、彼はいちやく世界から注目される存在となった。だがこのことについて井関は「『スモーク』がウェイン・ワン監督の名前を高めたとは考えていません」と語る。

「彼は『スモーク』の前にディズニーで『ジョイ・ラック・クラブ』(1993)を撮っていましたから。アメリカ映画界の素晴らしいところは、スタジオの連中が皆、小さな作品もちゃんと見ていることです。

『ジョイ・ラック・クラブ』は中国移民の話なので、ワン監督が抜擢されたのかもしれませんが、それまで小さな作品しか作っていないワン監督にメジャーが作品を撮らせた。これはディズニーの功績です。ただし東海岸では『ジョイ・ラック・クラブ』より『スモーク』のほうが、評価が高いのです」(井関)。

「私はこの映画が分かりません」と、女性宣伝プロデューサーは井関に言い放った。

「スモーク」はミラマックスの配給により、1995年6月9日よりアメリカで公開される。
「『スモーク』のアメリカ公開は、アートハウス系での上映で、興収1800万ドルぐらい上がりました。批評の類いも良かったです。ただ、同じ初日にミラマックスはイタリア映画『イル・ポスティーノ』を公開し、こちらは3000万ドル以上の興収を上げています」(井関)

そして日本公開は、井関がかつて所属した日本ヘラルド映画の配給により、同年10月7日より恵比寿ガーデンシネマの開業1周年記念作品として上映されることが決定。ヘラルド宣伝部による宣伝活動も開始された。

「宣伝プロデューサーをやってくれたのが、後藤優さんという女性で、僕も宣伝マンの経験がありますから、“口出しはしないけれど、客層を区切らないでくれ。スモーク層という存在を探して欲しい。中学生でもお年寄りでもいいから”と要望を出したところ、後藤クンが“私はこの映画が分かりません”って言うんだよ。とにかく『この映画のことを好きになってくれる人を探してくれ』と言ったところ、彼女はそういう人たちを探してくれて、“勉強になりました”と言ってくれました」(井関)

「映画を当てるのに一番必要なのは熱意(パッション)だということを学びました!!!!」

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(c) 1995 Miramax/N.D.F./Euro Space

単館ロードショーとはいえ、同じヘラルドの先輩が製作した作品の宣伝ブロデュースを任せられた、当の後藤は当時、どう考えただろうか。

「私は前の会社から日本ヘラルド映画に移ったばかりで、一番最初に任された映画が『スモーク』だったのです!絶対に大ヒットさせたいという思い、自分の中でのプレッシャーは強くあったのですが、さらに強い思いと熱意をもっていた方が井関さんでした」(後藤)。

「スモーク」という作品は、良質ではあるものの、どこがどう良いのかと問われた場合、なかなか具体的な言葉が出てこない。そのもどかしさを払拭し、作品の魅力を言語化し、それを伝播すべく、メディア関係者にアプローチしたり、宣伝材料や広告類に反映させるのは、宣伝プロデューサーの大きな仕事だ。

「手取り足取り井関さんが宣伝のノウハウ、マスコミとの付き合い方、プレスシート、チラシの書き方、パブリシティの売り込み方、切り口を教えて下さいました。今、振り返って思うことはやはり映画を当てるのに一番必要なのは熱意(パッション)だということを学びました!!!!」(後藤)

井関からあらゆる宣伝のノウハウを学んだ後藤は、現在でも映画宣伝の仕事に就いており、多忙な日々を送っている。

そして1995年10月7日。恵比寿ガーデンシネマにて、井関が製作総指揮を務めた「スモーク」が、いよいよ初日を迎えた。

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(後編に続く!)

(取材・文:斉藤守彦)

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    ライタープロフィール

    斉藤守彦

    斉藤守彦

    斉藤守彦(さいとうもりひこ) Morihiko Saitoh 静岡県浜松市出身。映画館、ビデオ会社でのアルバイトを経て、映画業界紙「東京通信」記者 (後に編集長)に。1996年からフリーの映画ジャーナリスト/アナリストとなり、以後多数の劇場用パンフレット、「キネマ旬報」「HiVi」「ザテレビジョン」「日経エンタテインメント!」「宇宙船」「スターログ日本版」「INVITATION」「東京カレンダー」「アニメ!アニメ!」「フィナンシャル・ジャパン」「Pen」などの雑誌・ウェブメディアに寄稿。2007年秋に「日本映画、崩壊 -邦画バブルはこうして終わる-」を、08 年「宮崎アニメは、なぜ当たる -スピルバーグを超えた理由-」、09 年「映画館の入場料金は、なぜ1800円なのか?」、 10 年に「『踊る大捜査線』は日本映画の何を変えたのか」(共著) を上梓。 他の著書に「図解でわかるコンテンツ・ビジネス」1〜4(共著)、「ソノラマ MOOK/ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(構成・執筆) 、電子書籍「日本映画、飛躍と困惑の過去・現在・未来」等があり、ここ数年は「映画宣伝ミラクルワールド」「80年代映画館物語」と、独自の視点による書籍を執筆。2016年3月には新作「映画を知るための教科書 1912−1979」が世に出る。現在、水道橋博士編集長のメールマガジン「メルマ旬報」で「2016年映画館物語」を連載中。また「BOOKSTAND映画部!」で、「映画を待つ間に読んだ、映画の本」と「映画惹句は、言葉のサラダ」の2つの連載を行っている。

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