「エイプリルフールですけど、なんで皆あんなに盛り上がってるんですか?」|映画で答える人生相談
読者の皆様から寄せられたお悩みにアンサーしつつ、相談内容に沿って一本の映画を処方する当コラム。送られてきた悩みはすべて捏造なのだが、今回は四月馬鹿ということでちょうどいいんじゃあないでしょうか。といったマクラもそこそこに、出たとこ勝負の見切り発車もついに七回表。今回のお悩みはこちら。
「エイプリルフールですけど、なんで皆あんなに盛り上がってるんですか?」
今回のお悩み
毎年、エイプリルフールになると憂鬱になります。
いろんなところでエイプリルフールの企画をやりますが、盛り上がりすぎっていうか、ちょっと悪ノリしすぎなんじゃないのっていうか、とにかく、なんであんなに盛り上がっているのかが私には理解できません。
職場で毎年毎年「あれ観た?」「面白かったよね」なんて会話をするもの苦痛で仕方がありません。
ちなみにハロウィンや恵方巻きにもノレないタイプなのですが、ほんとうに、みんな、なんであんなに盛り上がっているんでしょうか? 理由が知りたいです。
エイプリルフールに盛り上がれないあなたに処方する映画は
ご相談ありがとうございます。近年は4月1日になりますと、さまざまな企業がユーモアの利いた企画を立てて「エイプリルフールネタ」としてコンテンツを発表しますよね。
エイプリルフールは一昔前であれば、身内同士でのちょっとした嘘の吐き合いでしたが、今やすっかり風物詩と申しましょうか、個人も企業も「今日こそは」と準備して、とっておきのネタを投下する日になっています。
この構図は、あなたがお悩みにも書かれていたとおり、ハロウィンや恵方巻きにも通じるものです。もう少し歴史を遡るならば、バレンタインやクリスマス、土用の丑の日も近いかもしれません。
さて「なぜ、エイプリルフールがあんなに盛り上がっているのか?」についてですが、国民性や同調圧力、はたまた共同体が云々なんて話を持ち出さずにも、昔から日本には「踊る阿呆に見る阿呆」という言葉があります。後には「同じ阿呆なら踊ったほうがいくらか得だろう」的なパンチラインが続きますが、祭りにはノってしまった方が楽しいというのは、ある意味真実です。
「あの人たち、なんであんなに楽しそうなのだろう」との御意見は、祭りを観測している立場から生じるものです。それは意識的であれ無意識的であれ「あの人たち、楽しそうだな、入ってみたいな」という、嫉妬にも似た感情もスパイス程度に混入されているのですが、それはさておき「祭りの楽しさ」は、実際に輪の中に入ってみなければわかりません。同じ祭りを体験することにより、楽しさの理由はわかります。
おそらく、あなたはエイプリルフールを「観測」している方であると見積もります。それは、砂場で楽しそうに遊んでいる友人たちを横目に「山を作って壊すのが、なぜ面白いんだろう。賽の河原じゃないんだから」と一人遊びをしている子供と同じだとも言えるでしょう。ですが、心のどこかで「一緒に遊んだら楽しい」と感じている自分もいるはずです。
個人的な事例で例えるならば、私は幼少期に某ネズミの国の巨大電撃山に搭乗しようとしたところ、身長制限で引っかかり乗れなかった記憶があります。以降、私は「身長で差別をするなど何が夢の国だ」と見当違いの怒りをネタにし「絶対行かねぇよ、あんなとこ」とディスり続けていますが、おそらく、今行ったら滅茶苦茶はしゃぐと思います。と、そんなアンビバレンツな感情を、あなたも持っているはずなのです。
ということは、あなたもエイプリルフールを楽しんで、何なら参加してみることが「なぜあんなに盛り上がっているのか?」の理由を見つける最善手といえるのではないでしょうか。
視点と立場を少し移動してみるだけで、物の見方や感じ方は、面白いほど変わります。今回は、あなたの背中を押すために、その視点と立場を変えることを描いた映画を処方したいと思います。
伝説のB級ゾンビ映画
『ビョーク・オブ・ザ・デッド』
※本作の画像は本記事では使用できません。理由は本記事の最終行をご確認ください。
2000年代は数々の名作ゾンビ映画が作成され、2010年代へとバトンを渡しました。そのことについては、『ゾンビ映画を血みどろに彩る、可愛く、美しい女性たち』にも書いたので、よろしければご覧ください。
さて、「2000年代は数々の名作ゾンビ映画が作成され」と書きましたが、傑作と同等に駄作も量産されています。その筆頭として、ゾンビに火山の噴火というディザスター要素をプラスし、その超絶的にショボいCGや絶望的な演技力、ある意味超越的な脚本によりRotten Tomatoesで前代未聞の0%を叩き出した『バーニング・デッド』が挙げられますが、本作『ビョーク・オブ・ザ・デッド(2010)』もまた、知る人ぞ知る、ある意味駄作のカルト・ムービーです。しかし、捨て置くわけにもいかない、映画史に埋もれさせるにはちょっともったいないといった親心もあり、今回処方させていただきます。
概要を先に説明しますと、本作はポーランド・ベルギーの合作で、監督は波蘭人であるカジミェシュ・スコリモフスキ。建築家から映像の世界に転向し、地元バンドのMVが国内で人気を集めたことからショートフィルムの監督を務めるようになり、本作で初の長編に挑戦しています。
ちなみに、MVやCMの制作を経て長編にチャレンジした監督/作品としては、ゾンビ映画で挙げるならば竹内哲郎の『WILD ZERO』がありますが、こちらは紛うことなき大傑作ですので機会があればぜひご覧ください。
話を戻しまして本作は、ある日世界中に「謎の歌声」が響き渡るシーンからはじまります。欧州で、中東で、アメリカ大陸で、テンポよくカットが割られながら不穏なストリングスと怪しげな声色が画面に充満していく。その歌声を聞いた一部の人が次々と卒倒し、病院に担ぎ込まれ、各地でちょっとしたパニックが起こります。倒れた人々は一様に、暗黒舞踏のような痙攣を起こした後に心停止に至りますが、数時間後には再び蘇り凶暴化、次々と「生者」を襲いはじめます。
『ビョーク・オブ・ザ・デッド』のゾンビは、基本的に『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『28週後…』と同じく「走れるゾンビ」であり、その身体能力から素早く感染を広めていきます。果たして人類は感染を食い止めることができるのか、そして謎の歌声の主は誰なのか、というのが大まかな話の流れです。
ここまでは、よくあるゾンビ映画と同じような筋ですが、本作はセレブレティが次々と噛まれては感染し、ゾンビと化して人々を襲うのが大きな特徴です。しかし、低予算映画であるため、ギャランティの問題から本人を出演させることができない。そこで、登場するセレブレティたちは全員素人であり、さらにまったく似ていないという凄まじい力業で映画を駆動させていきます。
まったく似ていないカイリー・ミノーグ、背丈が大きく違うジャスティン・ビーバー、なぜか人種が違うポール・マッカートニーなど、多くの「とんでも設定」を施されたセレブレティは、見た目では誰だかわかりませんが、噛まれた際に『仁義なき戦い』の死亡シーンよろしくテロップが出る無駄に親切な設計がなされており、ギリのギリで判断することが可能です。
これが駄作であると言われる所以のひとつですが、「カイリー・ミノーグが噛まれたって? ファッキン素晴らしいじゃねえか」と言いながらバットを持ち、ゾンビの頭をフルスイングしてみせるノエル・ギャラガーだけはちょっと似ているといった爆笑ポイントもあるため、気を抜いていると「お、面白いかもしれない」と感じてしまう。
ほかにも、「冗談通じなそうな顔のヤツ連れてきて、坊主にしときゃそれっぽいだろ」的なノリで抜擢されたとしか思えない、素人が演じるシニード・オコナーは噛まれてもなぜかゾンビにならないなど、荒唐無稽ながらも細かい設定が張り巡らされており、意外なテンポのよさに、再び「あれ、これ良作なのでは」と勘違いしてしまう可能性すらもっています。
タイトルからお察しの通り、黒幕は俗世に幻滅し歌声で世界を滅ぼさんとするビョークなのですが、無論、話の内容及び予算の関係上、本人は登場しません。大ボスだけは神秘性をもたせたかったのか、はたまた突っ込まれるのを避けたのかはわかりませんが、すべて後ろ姿、または薄い垂れ幕を一枚下げてシルエットで描かれます。
また、冒頭の歌声ですが、これも許可が降りず「ビョークのそっくりさんに歌を歌わせる」という、ギリギリで訴訟モノの荒業で乗り切っています。ですが、まったく似ていないという(笑)思わず(笑)と付けざるを得ない可愛らしさっぷりで、映画が終わる頃にはちょっとした愛情を抱いてしまうほどです。
ここまで、作品のフックと申しましょうか、外周をぐるぐると周ってきましたが、ヴィジュアルのアホらしさが本作のすべてであるかと訊かれれば、実はそうでもありません。
ゾンビ映画においては「噛まれる、噛まれない」そして、「噛まれたらどうするか」といったせめぎあいがありますが、本作では主人公の女子高生のグルーピーが、自分の好きな歌手がゾンビになった姿を見て「私も噛まれたい(=同じになりたい)」と、噛まれることにより相手と同化します。そして「ゾンビにはなるまい」と、生きる屍を観測する側にいた女子高生に恋をした男の子もまた、噛まれてゾンビになるという、ちょっとした『マタンゴ』リスペクトなシーンに尺を割いています。
物語の最後では、ゾンビの方がマジョリティーと化した世界になり、ゾンビは楽しそうに街で暴れ狂います。火や煙があがり、車がひっくり返り、ガラスが飛び散った路上で、大量のゾンビたちは再び、暗黒舞踏のような痙攣をして喜びを顕にします。ゾンビたちの音頭をとるのは、画面中央に転がった車体の上でカクついた動きを見せる、スーツの肩幅だけはそっくりなデヴィッド・バーン。それは「ゾンビの祭り」と形容して差し支えない情景で、人間としては迷惑ですが、ゾンビにとっては「祝祭」以上のなにものでもありません。
人間には「ゾンビになって何が楽しいのか(幸せであるのか)」はわかりません。ゾンビになってはじめて、あの痙攣の意味、そして下手糞な歌声の意味がわかるのです。ゾンビをエイプリルフール、生き残った人間をあなたとするならば、エイプリルフールに噛まれてみることで、その楽しさがわかるはずです。ぜひ、予行演習として本作をご覧のうえ、新しい視点と立場に飛び込んでみてください。
まあ、『ビョーク・オブ・ザ・デッド』なんて映画、無いんですけどね。
(文:加藤広大)
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。