インタビュー

2017年01月24日

『エリザのために』“娘のために不正をしてしまう父親”が描きだしたものは何か?クリスティアン・ムンジウ監督へのインタビュー

『エリザのために』“娘のために不正をしてしまう父親”が描きだしたものは何か?クリスティアン・ムンジウ監督へのインタビュー



(C)Mobra Films - Why Not Productions - Les Films du Fleuve – France 3 Cinema 2016



1月28日より、ルーマニア映画『エリザのために』が公開されます。
本作の物語は、卒業試験の前日に暴漢に襲われてしまった娘のために、父親がコネを駆使し、不正を犯してまで試験に合格させようとする、というもの。これだけ聞くと、まるで「世界仰天ニュース」に出てくるような内容にも思えるでしょう。

しかし、この映画で描かれていることは“出来事そのもの”だけではありませんでした。“ルーマニア特有の社会の病巣を白日の元にさらけ出す”ということや、“より良い選択をするためにはどうすればいいか”という普遍的な問いかけをしている点においても、確かな意義がある作品だったのです。そのことを知ることができる、クリスティアン・ムンジウ監督のインタビューを以下に紹介します。

1:ルーマニアでは、この映画で描かれた不正を“当然”と感じる人もいる!


——映画をとても興味深く観ました。個人的には、娘の留学のためとはいえ、不正までしてしまう父親に共感することができませんでした。監督ご自身、またルーマニアの人たちは、この映画の父親に共感されるのでしょうか。

僕は、とてもこの父親に共感してしまいます。それは、年齢や、どういう教育を受けてきたか、親であるか否か、いうことにもよるでしょうね。
実は、上映後に行ったアンケートで「この映画で何を提示したいのかわからなかった。こんな当たり前のことを映画にしても、ドラマがないじゃないか」という回答があったんです。ルーマニアの人すべてがそうではありませんが、「親であれば、どんな代償を払おうが、子どものためにそれをやるのは当たり前じゃないか」と、この映画の父親の行動を“当然”と感じる人もいるんですよ。
ここで見逃してはいけないのは、ルーマニアと、その地域の歴史です。この映画で描かれる社会は、生き延びるためには、お互いに監視するだとか、密告するだとか、あるいは自分の意見にそぐわなくても同調しなければいけないだとか、そういう伝統や習慣があるんです。日本とは違うかもしれませんが、そのような社会に生きる人にとっては、この映画の出来事に共感する人が多いのでしょう。

——確かに、そのように悪しき伝統や習慣が根付く社会の中では、本作のように不正という選択をしてしまったとしても、当然だと思ってしまうのかもしれませんね。

そもそも、この映画は“社会のあり方が公平ではないのではないか”、“社会が正義に満ちていないのではないか”ということも描いています。何せ、少女が白昼にいきなり暴力を受けてしまうんですから。「それでも誰も助けてくれなかった」、「そんなのおかしいじゃないか」、そういうところから物語がスタートしているわけです。だからでこそ、本作の父親は「この社会は間違ったことが多いんだから、問題は自分で解決するしかない」、「法律も解決してくれないんだったら、自分が正しいと信じているものに頼るしかない」という結論に至って、不正をしてしまうんです。それらはただの自己正当化で、言い訳にすぎないのですけどね。



撮影中のクリスティアン・ムンジウ監督


(c)Kazuko Wakayama




2:年を取った大人へ“選択を問う”こともテーマの1つだった



——おっしゃる通り、この映画は父の不正の行動の数々により、ルーマニアや、その地域に根付く悪しき習慣を何も知らない人にも伝えることができる作品である、それこそがテーマであると感じました。

それももちろんですが、この映画は複雑に何層にも積み重なった要素があります。単純に社会の腐敗であるとか、その中でどういう妥協をするかとか、それだけを描こうと思ったわけではないんです。
その要素の1つに“年を取っていく”ということがあります。ある年齢になると、いろいろと人生について振り返ったり、自分の子どもに何かを託そうとしたり、自分の子どもが自分と同じ過ちを犯さないように、何かいい道を用意してあげよう、と思ったりすることがよくあります。この映画の父親のように50歳をすぎたりすると、特に“教育により何ができるか”ということをよく考えるのではないでしょうか。今の悪しき体制に抵抗してがんばるか、あるいはそういったものを排除するか……そういった、年を取った大人に対しての“どの選択をすればいいか”という問いかけにもなっているんです。


——年齢を重ねるほど、子どものことを考えれば考えるほど、間違いを犯してしまう可能性も増える、ということでしょうか。

一概にはそうではないですし、むしろ年を取ってからのほうが間違いに気づきやすいのかもしれません。この映画で特に表現されているのは、若いときに考えていた方向性と、年を取ってから振り返ったときの“ギャップ”ですね。この世の中で何が真実なのか、どれが良いことか、悪いことかがはっきりしなくても、誰もが毎日のように何かの決断をしています。これまで正しい選択をしたと思っていても、ある時たくさんの間違いを犯してしまったと振り返ることもあるでしょう。20歳のときに50歳の自分をどう考えるか、50歳のときに20歳を振り返ってどうなのか……そういったことも描いているんです。



(c)Kazuko Wakayama


カンヌ国際映画祭でのクリスティアン・ムンジウ監督(一番左側)




3:父親が子どもから学ぶこともある



——発達障がいの少年や、その母親との関わりも印象に残りました。彼らを登場させた意義を教えてください。

あの少年と主人公との関係により、“自分の子どもだけでなく、ほかの子どもや若い世代に、大人が何かできることがあるかもしれない”という気づきも示唆しているんです。子どもの将来のため、これからはいい社会になってほしいと願っていたところで、ずっと同じ教育をやっていては何も変わりませんよね。この社会で何かを変えたいと思うのならば、教育のあり方も変えないといけないかもしれない、ということも、この映画で感じてほしいです。


——この映画に興味を持った方へのメッセージがあれば、お願いいします。

この映画は娘と父の関係を描いていて、表面上では“娘を助けたい父親”という構造があります。しかし、実は“娘が父親を助けている”とも取れるんです。父親が、その子どもから父親のあり方を教わり、真実に気づくというのは、どの世界でもあることですものね。
私の作品は、ストーリー展開そのものも魅力ですが、その裏にはどういった意味が隠されているか、ということも同じくらい重要だと考えています。ぜひ、日本の皆さんにも、この映画からたくさんの“気づき”を得てほしいです。


まとめ


ルーマニアは過去に民主化運動が頓挫し、それに代わる形で汚職や不正がはびこる社会が誕生してしまったのだそうです。ムンジウ監督は、子どもを何よりも大切に想う(そのために不正をしてしまう)父親の姿を描くことで、そのようなルーマニアの社会の今後や、若い世代について、何かしらの思索を与えたかった、変わってほしかったのだと、このインタビューを通じて知ることができました。

なお、ルーマニア社会では、近年では汚職政治家たちが摘発され、実刑が言い渡される事例も多くなってきたのだそうです。劇中で、2人の検事が電話の盗聴をしてまで刑事告発をしようとしたのも、その現実を反映したものだったのだとか。

社会における“理不尽”や“悪しき習慣”は、世界中のどこにでもあることなのでしょう。だけど、その社会の中でも、誰かと話し合ったりして、正しい選択をすることはできるはず……そのような普遍的なメッセージも感じる作品でした。この社会で生きるすべての人に、この映画をおすすめします。

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(文:ヒナタカ)

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