日本映画の企画・製作について語り合う—前篇− 塩田明彦×斉藤守彦対談
「映画を知るための教科書 1912−1979」をたたき台に、日本映画の企画・製作について語り合う。—前篇−
新作書籍「映画を知るための教科書 1912−1979」を上梓して、2ヶ月余りが経過した。お陰様で評判も良く、たくさんの方々から感想や励ましの電話やメールをいただいた。
その「映画を知るための教科書 1912−1979」が完成した時、真っ先に読んでいただきたい人がいた。「黄泉がえり」「どろろ」「抱きしめたい」といったメジャー作品のヒット作もさることながら、「害虫」「月光の囁き」などミニシアターで公開された作品も手がけるなど、幅広いタイプの作品を世に出してきた、塩田明彦監督だ。
塩田監督とは15年前にインタビューさせていただいたご縁で、以後共通の友人がいることから、時々酒席を共にしていた。同世代で、監督業の傍ら映画美学校で講師を務め、その模様は「映画術 その演出は、なぜ心をつかむのか」として書籍化されている。 この「映画術」と15年前に行ったインタビューが、「映画を知るための教科書 1912−1979」が誕生するきっかけとなったことから、本書を読まれての感想を直接聞きたかった。
塩田監督は快諾され、かくして現役映画監督と映画ジャーナリストによる対談が実現した。
塩田監督の発言と「映画術」からインスパイアされた本?
斉藤 今回の書籍は編集者が企画したもので、その企画提案を受けた時、以前塩田監督が僕のインタビューに答えてくれた時の言葉が頭に浮かんだんです。僕が「『害虫』の次の作品は、何ですか?」と聞いた時、塩田監督は「この次は、僕をいじってもらうんです」と言われた。
塩田 そんなこと、言いましたっけ?
斉藤 言いましたよお。やっぱりオファーを受ける立場になってこそ一人前というか。ですから、今度の書籍の企画提案を受けた時も、「これは自分をいじってもらう機会だ」と考えて、「やりますっ!」と言ってしまったんです。
塩田 はあ。
斉藤 「教科書」というタイトルは、これも編集者が命名したもので、実を言うと発売の前月まで抵抗していたんです。ところが編集者は塩田監督が書かれた「映画術 その演出は、なぜ心をつかむのか」を読んでいて、「この本が売れたのは、『映画術』というタイトルが良いからだ」と(笑)。編集者という人種は、よくそういうものの考え方をしますよね。
塩田 そうですね。
斉藤 それで「なんであの本が2回も増刷されたか分かりますか?それはタイトルと、表紙に『グロリア』の写真を使っているからです!!」と。そうかなあ(笑)。
「害虫」が「黄泉がえり」へと発展したプロセス
15年前にインタビューした時は、ちょうど「害虫」の公開直前だった。ユーロスペース1館で公開された小規模の作品と思いきや、日活、ソニーPCLに混ざってTBSが製作出資していることに、当時驚いた記憶がある。 斉藤 「害虫」の製作委員会には、TBSが入っていますよね。
塩田 当時TBSに安藤紘平さんという方がいて、個人的な面識があったんです。彼はその後早稲田大学の教授になって、最近退官されたかな。それでその時「害虫」の製作費があと2000万円足りないので安藤さんに相談に行ったら「うちが出すよ」と。
斉藤 へえーっ。太っ腹ですねえ。
塩田 「でもそれは、君に対する先行投資だ。その代わり、今後TBSとよろしくお付き合いして下さいね」ということで、「害虫」に2000万円出してくれたんですよ。それで後日TBSから「今度うちでやる映画を撮って下さい」と言われて、内容も聞かないで「やります」と受けたのが「黄泉がえり」です。「あ、こういう題材だったか!?」と思いました(笑)。意表を突かれたというか。題材も条件も一切何も知らずに受けた企画でしたが、そういうやり方に憧れがあったんです。理屈じゃない受け方をして、うまく行く時もあるという。というか、真の実力者はうまく行かせなきゃいけない。それで「いじってもらう」という発言になったんですね。
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