女人禁制!50代以上でエロスを語る『赤い玉、』トークイベント
若手時代を知る仲だからこその話題に続けて「今回の作品を観て、これで終わりじゃないなっていうのを感じたのよ」と話します。
すると奥田さんも「僕の想像で、監督は時田がそういう終末を迎えたと思っているのかもしれないけど、僕はあからさまに見せたくない、まだ男であり続けたい、あり続けるし、そうだという思いを内に秘めて演じるぞ、と思っていて。どこかで僕の本質が出たのかもしれないけど、『まだ僕は男で、ブイブイいわせるぞ』というほうが、観た人に“どこまであいつは男として生きていくんだろう、俺はどうなんだろう”と思わせられると思った。それが、僕の中ではちょうどいいさじ加減だという確信を持って演じられたんですよ」と演じていた当時の心境を語ります。
そんな奥田さんに崔監督は「これまた品がいいことを言って」と茶化しつつ、「映画を観ていただけたらわかりますが、男のエロスは半分以上が妄想なんです。若い頃はどうしても現実が追いついてこない、見る女、見る女、開いていただきたいくらい」と話すと、高橋監督から「ちょっと待って」と声が。
「俺は妄想する必要なかったんだよ。歳とってからだよ、妄想するようになったの!」と火に油を注ぐような高橋監督の発言が会場を沸かせます。
「合鍵が16個が8個かの違いはありますけど、確かにモテましたよ、ボンは」と崔監督も高橋監督のモテっぷりを認めざるを得ないようでした。
その後も、崔監督の恨み節に高橋監督が軽妙な返しをする小気味良いやりとりがところどころで交わされ、会場を湧かせていました。
川端康成の世界を感じるような作品
加えて、崔監督は「昔のままのボンだったら、もっと肉欲に素直に走っていいと思うし、奥田の芝居も際どいところを行ったり来たりしていた。それを観て、このふたりのサスペンスフルを描いていると言っていい映画だと思いました」と話し、単純に老いた男のエロチシズムを描いているのではなく、川端康成や谷崎潤一郎を彷彿とさせるノーベル文学賞の領域に入っていると自身の解釈を語ります。
それを聞いた高橋監督は「正直に言うと、川端康成の『湖』って小説があるんだけど、それをちょっと意識したところがありますね。女子高生の部分は『湖』から想を得ました」と話し、「じゃあ、俺の見方はそんな間違いではなかったってことか」と崔監督。
演じていた時にどう感じていたか尋ねられた奥田さんは「僕もある記者に『川端康成の世界だよね』って話したら『えっ、伴明監督もそうおっしゃってました』と言われて、なんだ、そう思って演じてて正解だったんだ、と思いましたね。ふたりでそんな話をしたことはないのに」と打ち合わせずとも、同じイメージを持って作品を作っていたことを明らかにします。
「そういうことを話したことはないね。僕にとって川端康成は身近な作家ではなかったんだけども、川端康成の変わりようというのかな、ある種の妄想というか空想というか。これはアリだなというのはあったんだよ」と高橋監督も続けます。
それを聞いた崔監督は「このふたりが全くナルシストになっている感じがして、そこがシャレているんだけど、それがやっぱり映画だよな。映画のある種の空想の世界にふたりが行ってしまったということを強く感じた」と話し、そこに嫉妬もあったといいます。
また、「時田を伴明のことだとは思ってはいけない」という崔監督に、高橋監督が「俺は女子高生に興味ないもん」と言うと、一方の奥田さんは「そう言われると、俺が興味あるって言いづらいじゃない(笑)」と加わります。
そこから奥田さんが監督を務めた映画『少女』を踏まえながら、「少女という世代は必ず途中下車するところ。憧れも実態も踏まえた中でそれ経験をしてるとするならば、少女を通り過ぎると、もっと実態をもった年齢の女性を求めて、それはいくつだ、となる。そこに少女というものをフィードバックしながら行ったり来たりする妄想の世界が生まれて、これが今現在の自分とするならばとても気持ちいい世界なんですね。これからの将来どの世界にいくかと考えるとワクワクする」と奥田さんの少女に対する持論が繰り広げられます。
それを聞いた崔監督は「時田そのままです」と一言。会場は笑いに包まれました。
他にも、崔監督が感じた高橋監督が作る映画の変化に関する話題や、性表現も暴力も摩擦で、それが今の日本映画にはなくなってきている、と熱く論じる一幕もあり、客席も興味深く耳を傾けていました。
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