ミスター日本映画、そして 中国10億人に愛された映画スター高倉健

■「キネマニア共和国」

写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.2


現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。

日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

ミスター日本映画、そして
中国10億人に愛された映画スター高倉健


高倉健



高倉健がこの世を去って早一年経ちましたが、その人気は数々の伝説とともに増すばかりで、
この秋は一周忌を迎えて全国各地で、そして中国でも追悼上映が催され、故人を偲びました。

「食うため」に映画俳優になり
初めてのドーランに涙を流し…


高倉健(いや、ここでは以後、健さんと呼ばせていただきます)は1931年2月16日、福岡県中間市生まれ。小学校のときに疎開で八幡市へ移転しています。

幼少期は病弱でしたが、中学から陸上や合気道に励み、またボクシング部を設立し、フェザー級6勝1敗の戦績を誇りました。

この時期、外国への憧憬が高じて、密航を企てるも失敗したことがあったようで、後に世界を駆けまわることになる健さんらしいエピソードではあります。

明治大学商学部在学中は酒と喧嘩と女に明け暮れ、特に渋谷では勇名を馳せていたようですが、折からの就職難で貿易商の道は開けず、しかし卒業後も企業のベルトコンベアに乗りたくない一心で就職活動をしていたところ、美空ひばりなどが所属していた新芸プロを紹介されて、マネージャー見習いとして面接を受けていたところを当時の東映専務マキノ光雄の目に留まってスカウト。55年の秋、東映第2期ニューフェイスに補充編入されることになりました。

ただただ「食うため」に映画俳優の道を踏み出した健さんは、入社して1か月半後には『電光空手打ち』(56)で主演デビューを果たします。

初めて顔にドーランを塗られたときは、九州男児として情けなく、涙をこぼしてしまったと述懐していますが、その後も東映東京撮影所の現代劇で、主に地方出身の熱血青年といったキャラクターを多く演じ続けていきます。

デビュー時から健さんは、撮影現場のスタッフに対して常に気さくに接し、率先して自分の奢りで若い助監督などスタッフや新人&大部屋俳優を飲みに連れていくなど、そういった飾らない人柄にスタッフもまた惹かれ、彼のためならといった気運が撮影所内で盛り上がっていたそうです。

もっとも若手スター時代の健さんは、特出した作品がなく、当時の映画ファンからもどこか野暮ったいイメージで捉えられていました。

海外ロケや外国映画への
積極的出演


そんな彼のイメージを大きく変えたのが、60年代に入り、東映が任侠映画路線を敷くきっかけとなった『人生劇場/飛車角』(63)や『暴力街』(63)でやくざを演じたことで、これを機に『日本侠客伝』全11作のシリーズ(64~71/全11作)や、『網走番外地』シリーズ(65~72/全18作)『昭和残侠伝』シリーズ(65~72/全9作)といった人気シリーズに主演し、全共闘世代の圧倒的支持を得るとともに、ここでストイックなイメージが定着していきます。

実際、この頃から健さん自身、己が銀幕のスターとして、そのイメージを裏切ってはいけないと意識するようになり、努めて実像を一般に示さないようになっていきます。

そういった意思の表れのひとつとして、海外ロケ作品や外国映画への積極的出演が挙げられるでしょう。香港ロケの『ならず者』(64)やオーストラリア・ロケの『荒野の渡世人』(68)、イラン・ロケ『ゴルゴ13』(73)アメリカ映画『燃える戦場』(70)や『ザ・ヤクザ』(74)など、国内と違って自分を知る者がいない海外での撮影は、本人にとって非常に嬉しいものがあったようです。

70年代に入り、東映が敷いた実録やくざ路線に健さんはなじめず、新たな道を模索するようになります。
その1本が『新幹線大爆破』(75)で、ここで健さんは理不尽な社会への復讐から新幹線に爆弾を仕掛ける犯人役で、虐げられた者の怒りと、罪びとの罰を両立させました。

日中関係の改善にも大きく寄与した
稀有な映画スター


76年にフリーとなった健さんは、翌77年に公開された超大作『八甲田山』や初の松竹映画『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』でキネマ旬報主演男優賞など、その年の賞を総なめし、“ミスター日本映画”として不動の地位を築きます。

さらにはフリー直後に主演した『君よ憤怒の河を渉れ』(76)が、79年に中国で文化大革命後初の外国映画として公開されるや、何と10億もの中国国民が鑑賞したといわれ、健さんは中国人にとって最大級の海外スターとしてリスペクトされるようになります。

81年の降旗康男監督作品『駅/STATION』は健さんの寡黙なイメージを決定づけるとともに、国民的人気を得て、数多くの主演男優賞を受賞。以後、健さんと降旗監督は名コンビとして『居酒屋兆治』(83)『夜叉』(85)『あ・うん』(89)『鉄道員(ぽっぽや)』(99)『ホタル』(01)、そして健さんの遺作となった『あなたへ』(12)まで熱い絆が紡がれていくことになりました。

その間も『南極物語』(83/南極)など海外ロケ作品に積極的で、アメリカ映画『ブラック・レイン』(89)『ミスター・ベースボール』(93)と、国際的にも活躍しました。

さらには健さんをリスペクトするチャン・イーモウ監督による中国映画『単騎、千里を走る。』(05)に主演しますが、21世紀に入って混迷する日中関係の中で、この映画が公開された2005年だけは、両国の関係性が改善されています。これを高倉健のおかげであると明言する両国の政治家も多く、ひとりの映画スターが国際緊張まで緩和させたという事実には驚嘆させられるものまであります(こういった映画の力こそを、両国ともに今後も活かしていくべきでしょう)。

高倉健、2014年11月10日、永眠。享年83歳。

私生活では59年に江利チエミと結婚し、おしどり夫婦となるも、親族の悪しきトラブルに巻き込まれて71年に離婚を余儀なくされました。
その後、彼女が82年に不慮の死を遂げたとき、マスコミのもたらす混乱を避けて葬儀こそ欠席しましたが、以降、命日に墓参りを欠かすことはありませんでした。そういえば『鉄道員』では劇中、彼女が生前こよなく愛した歌『テネシーワルツ』が流れていました。

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(文:増當竜也)

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