二代目襲名を固辞しつつ 父バンツマを敬愛し続けた田村高廣
写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたちvol.10
現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が、本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大な信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。
二代目襲名を固辞しつつ
父バンツマを敬愛し続けた田村高廣
戦前戦後の大スター、バンツマこと阪東妻三郎の長男として生まれた田村高廣。
初めから俳優の道を望んでいなかった彼でしたが、結果としては日本映画界になくてならない名優となりました。
父の借金を返済するため
やむなく映画俳優の道へ
田村高廣は1928年8月31日、京都府京都市右京区太秦生まれ。父親は言わずと知れた大スター阪東妻三郎で、4人兄弟の長男として生まれました。
後に高廣だけでなく、三男・田村正和、四男・田村亮も俳優となり、“田村三兄弟”として映画演劇界にその名を馳せることにもなっていきます(3人とも見事なまでに二枚目であるところも、さすがといった感があります)。
さて、田村高廣は特に父の職業を継ぐ気もなく、同志社大学卒業後、サラリーマンとして生活していましたが、53年7月7日、父バンツマが脳出血で急逝したことから近親や映画関係者に強く業界入りを勧められ、最終的に「乗り気ではないが、父が遺した借金返済のため」バンツマが最後に所属していた松竹に入社し、父の晩年の代表作『破れ太鼓』()の監督である木下惠介監督に預けられることになりました(借金は20数年で完済したとのこと)。
54年3月、木下監督の『女の園』で俳優デビュー。以後、木下監督に気に入られ、木下作品の常連男優として出演し続けます。国民映画の誉れも高い『二十四の瞳』(54)ではヒロイン先生の教え子で、戦争で盲目となった青年を演じ、クライマックスの同窓会シーンで多くの涙を誘いました。
「石橋を叩いて、渡らず引き返す」と自身でしゃれのめすほどに慎重派の彼は、バンツマ二世と呼ばれることを嫌い、なかなか時代劇に出演しようとしませんでしたが、56年のバンツマ追善記念作品『京洛五人男』でついに剣をとりましたが、その殺陣はバンツマに生き写しと評判になり「親父のチャンバラ映画は全然見ていない」と発言する彼の言葉は嘘としか思えないほどのものがありました。
フリーになって以降の
名演の数々
63年に松竹を退社してフリーとなってからの代表作は、何といっても『兵隊やくざ』シリーズ(65~72)のインテリ有田上等兵が当たり役となり、特に増村保造監督の第1作ではブルーリボン男優助演賞を受賞。70年代は高林陽一監督『本陣殺人事件』(75)で無残な死を遂げる新婚初夜の夫や、大島渚監督の『愛の亡霊』(78)で妻とその愛人に殺されて亡霊となる夫、戦後初の日本映画の中国ロケが話題となった『天平の甍』(80)では鑑真を堂々たる貫録で演じ切り、小栗康平監督の映画デビュー作『泥の河』(81)では戦争で得た心の傷に苦しみ続ける父親(毎日映画コンクール男優演技賞受賞)、などなど彼が出るだけでその作品の星が一つ増えるといっても過言ではないほどの名演を示し続けていきます。87年の後藤俊夫監督作品『イタズ』の主人公である老マタギ役も忘れられません。
その間、幾度も二代目・阪東妻三郎襲名の話が持ち上がったとのことですが、彼は一貫してそれを固辞。しかしながら77年には父の当たり役『無法松の一生』(43)の舞台で主人公の無法松を演じ、79年にも父の主演映画のリメイク『地獄の蟲』に主演しました。
後藤俊夫監督の『こむぎいろの天使 すがれ老い』(99)という映画の現場で、一度だけ彼に取材したことがありましたが、子どもたちや犬をメインにした友情物語の中で、信州・伊那谷に伝わる蜂の子を獲る伝統猟法“すがれ追い”の名人を演じた彼は、少年少女たちを子役として接するのではなく、あくまでも同業の俳優とみなしながら接していたのが印象的でした。
2006年5月16日、77歳で永眠。
本人の遺志により、父の命日である7月7日に「天国に送る会」が催されました。
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(文:増當竜也)
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