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2016年12月14日

5分で分かる忠臣蔵~忠臣蔵の主要登場人物やストーリーをさっとご紹介~

5分で分かる忠臣蔵~忠臣蔵の主要登場人物やストーリーをさっとご紹介~


主なストーリー


ここからは、忠臣蔵の主要なストーリーを追って行きましょう。

シーン1「勅使饗応における浅野家と吉良家の確執」


天皇が出す使者(勅使)が江戸に来ることで、その饗応(接待)役として浅野家が抜擢されたことが物語の始まりです。江戸幕府としては大変重要な接待なのです。

饗応には様々なしきたりがあり、それを知らないと幕府が大恥をかいてしまう。そのしきたりに詳しいのが、儀式や典礼を司る役職の高家肝煎・吉良上野介でした。

浅野内匠頭は幕府から、作法に関しては吉良家を頼れ、と指示を受けていました。浅野家は伊予の伊達家とともに饗応役を任せられました。

そこで浅野家は吉良家に進物を送り、教えを請うことになります。その後、吉良上野介からの対応が少しずつ悪くなっていきます。

対応が悪くなる理由は、主に以下のような理由で書かれています。
・吉良家への進物が少なく吉良上野介の機嫌を損ねた
・阿久里(浅野内匠頭の妻)に吉良上野介が恋慕した
・浅野内匠頭は以前にも同様の勅使へ対する饗応役を経験していたが、その時とやり方が異なっていたためすれ違いが生じた
・吉良家の地元で取れる塩の精度が低く、上質な塩が取れる赤穂の製法を吉良が訪ねたが教えてもらえなかった

などです。特に、阿久里に吉良上野介が恋慕したシーンが描かれる作品では、吉良上野介は助平なおじいさんのような描写をされて少し可哀想です。

シーン2「松の廊下」


忠臣蔵における前半のクライマックスです。様々な忠臣蔵の映像で、幅が畳何畳分もある廊下で、若武者が老人を短い刀で切りつけるシーンです。

「松の廊下」とは浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった場所。斬りかかった旧暦1701年3月14日は、勅使が江戸に滞在し、将軍家が勅使に対して返答を行う、格式の高い行事の日。巳の下刻(正午少し前)に江戸城本丸の大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかりました。

斬りかかった理由は上記の対応の悪さに加えて諸説あります。
・3月14日の儀式での礼服について嘘を教えられた
・儀式の時刻で嘘を教えられた
・出すべき料理について嘘を教えられた

などです。このうちのどれか、または複数の理由で浅野内匠頭が恨みを持つようなストーリーになっています。

なお浅野内匠頭は、脇差と呼ばれる短い刀で吉良上野介を襲いました。

人を殺すためにより確実な「刺す」という使い方をせず、斬りかかるという手段で吉良に襲いかかったためか、吉良は額と背中へ切り傷を負っただけで、浅野内匠頭は取り押さえられてしまいました。

刺しに行かなかったことで、浅野内匠頭を武道不心得と評する人もいるようです。

シーン3「即日切腹」


取り押さえられた浅野内匠頭に対し当日切腹と、赤穂浅野家の改易(取りつぶし)の沙汰が下りました。

当時の江戸時代は「けんか両成敗」の風習があり、吉良上野介にも何らかの処分があったとしても不思議はなかったが、吉良家には全くおとがめがなかったのです。また、浅野家への処分も早すぎました。この処分が後に、赤穂藩に大きな不満を抱かせます。

浅野内匠頭の辞世の句は
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
といわれています。

浅野内匠頭切腹の報は、江戸の家臣が馬や駕籠を乗り継いで赤穂まで届きます。疲労困憊の家臣を大石内蔵助が出迎える優しさもドラマの見所の一つです。

シーン4「赤穂城の明け渡しと解散」


改易が決まってしまった赤穂藩の城・赤穂城は幕府に引き渡しすることに。ここで赤穂藩の武士は職場を失い、赤穂の浪人=赤穂浪士が誕生してしまうのです。

赤穂浪士の動きは様々です。まず、城の明け渡しに関しても恭順派と抗戦派が出てきました。

大石内蔵助は吉良上野介への処分を幕府に求めつつ赤穂藩の再興を目指すことで抗戦派をなだめ、まとめるようになります。

ここから大石内蔵助は非常に長い時間をかけ、

・浅野家再興
・吉良上野介の処分


の両面から活動をはじめるのです。

シーン5「浅野家再興運動」


大石内蔵助は幕府に対して、まず浅野家再興の願いを届け出ることにしました。浅野内匠頭には弟の長広がいるため、その弟を据えようというものです。

浅野内匠頭に即日切腹を申しつけた江戸幕府のトップ、5代将軍・家綱とその側用人(将軍の側近で、将軍の命令を老中などの実務部隊のトップに伝える役割)・柳沢吉保の体制は変わって居らず、願いは聞き届けられませんでした。

浅野家再興がならず、弟・長広が浅野の本家に預けられました。もし赤穂浅野家が再興されていたら、吉良家討ち入りはなかったのかもしれませんね。

シーン6「吉良家討ち入り」


浅野家再興の夢が途絶え、方針を仇討ちに定めた大石内蔵助は江戸に本拠地を構えます。武器や討ち入りの道具をそろえ、意志の弱い旧藩士(赤穂浪士)を討ち入りの仲間から外し、吉良上野介を最も襲いやすい場所・タイミングを整えるのです。

その結果決まったのが

・討ち入りは1702年12月14日夜(12月15日未明)
・場所は吉良邸(14日の夜に吉良家で茶会があることを突き止める)


というもの。

清水一学・木村平八郎という吉良側の武士の抵抗、炭小屋もしくは台所の奥に隠れる吉良上野介が見どころです。

吉良上野介が見つかるシーンは諸説あり、多いものは炭小屋に女着物で隠れている吉良上野介が引きずり出され、大石内蔵助に殺されるというものです。
近頃では台所奥に隠れていたところを槍で刺されたという説もあり、今後の映像はこちらの描写が多くなるかもしれませんね。

勝鬨を挙げた赤穂浪士は12月15日早朝に、浅野内匠頭のお墓がある泉岳寺に向けて歩を進めます。現代の東京に例えるなら、JRの両国駅のあたりから、JRの田町駅のあたりまで凱旋しました。およそ15キロより少し短い距離でしょう。

最終的には赤穂浪士は大石内蔵助を含めて47人。寺坂吉右衛門は生き証人として襲撃後に戦列を離れ、処分を受けたのは46人です。

シーン7「義士の切腹と吉良の処分」


武士が死を賜る際、自分で腹を切るか、単に打ち首(首切り人に首を切られる)となるかでは死の扱いが全く異なります。

赤穂浪士は幕府の裁定に背く仇討ちを行ったわけですが、世論では「義挙」と評価されていました。

47人は戦闘の作法に乗っ取って、彼らなりに筋を通して吉良邸に討ち入りました。命を助けられることは無かったものの、赤穂義士は切腹を幕府から賜ることになるのです。首を切られる「処刑」ではありませんでした。

1703年2月4日、大石内蔵助を含めた赤穂義士46人(途中で戦列を離れた寺坂吉右衛門を除く)は全員、切腹。

なお、吉良上野介の養子で吉良家を継ぐ吉良義周(よしちか)は静岡の領地を没収され、長野へ配流されることとなりました。その後若くして亡くなりました。

以上が、忠臣蔵の大きな流れです。

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