映画コラム
高畑勲『火垂るの墓』を読み解く3つのポイント
高畑勲『火垂るの墓』を読み解く3つのポイント
まとめ:反戦映画とは呼べない、もう1つの理由
この記事の最初に「清太の行動があまりに身勝手すぎる」「おばさんの嫌味ったらしい言動にイライラする」「悲しい物語そのものに拒否反応を覚える」という否定的な意見を掲げましたが、その感想はまったく間違っていません。むしろ、作り手があえて逃げずに描き上げた“不快さ”や“悲劇性”を真摯に受け止めた結果であるとも言えます。
しかしながら、これまで書いてきたように、まだ子供の清太が“幼い節子のために”起こした行動の数々、全体主義がまかり通っていた戦時中の悲劇であること、死んでもなおも不幸のままでいる清太と節子の姿を踏まえると、その不快さや悲劇性を超えた、高畑勲監督が伝えたかったメッセージを汲み取ることができると思うのです。
映画はさまざまな側面を持つ芸術であり、優れた作品は何度観ても新しい発見があるものです。『火垂るの墓』もまた、繰り返し観ることで、きっと新しい見識を得ることができるでしょう。だからでこそ、『火垂るの墓』が嫌いだったという方にこそ、もう一度観て欲しいのです。(もちろん、嫌いとう感情を改める必要は決してありませんが)
ちなみに、高畑監督自身「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」「なぜなら為政者が次の戦争を始める時は“そういう目に遭わないために戦争をするのだ”と言うに決まっているからです」などと語っていたこともあります。戦争に巻き込まれた者の悲劇を描いたからといって、結局は為政者が始めてしまう戦争を止めることはできない(それどころか政治的に利用されてしまうかもしれない)と、高畑監督は客観的な目線で捉えているので、やはり『火垂るの墓』は究極的には反戦映画とは呼べないでしょう。
とはいえ、戦争を起こしてしまう為政者に働きかけることができなくても、『火垂るの墓』は現代の市井の人に訴えている強いメッセージがあります。反戦映画とは呼べなくても、これからも(悲劇性が強いからこその)名作として、語り継がれていくのでしょう。
おまけ:『この世界の片隅に』と『となりの山田くん』も観てほしい
2016年に公開され絶賛で迎えられた『この世界の片隅に』は、『火垂るの墓』と“太平洋戦争末期に生きる人々を描いたアニメ映画”という共通点があるものの、ある意味では正反対の内容とも言えます。
なぜなら、『この世界の片隅に』は「一番よい選択肢を選んでいこう」という希望を謳っている物語であるから。『火垂るの墓』の清太が、客観的に見れば間違った選択をし続けてしまっていることとは対照的です。
『この世界の片隅に』はクスクス笑えるシーンも満載で、前述した戦時中の全体主義などよりも、「今日の晩ご飯はどうしようかな」といった現代にも通ずる庶民的な考えで行動している人ばかり。とても親しみやすくて、かわいらしい作品なのです(そののほほんとした雰囲気に、戦争の残酷性が時折顔を出すのが恐ろしいのですが)。
また、『火垂るの墓』で徹底して「一方的で極端な考え方による生きることの困難さ」を描いた高畑勲監督ですが、後年には『ホーホケキョ となりの山田くん』という「適当に生きていてもどうにかなるさ」という、まさに正反対のメッセージを込めた映画を作り上げています。
※『となりの山田くん』については以下の記事もご参考に↓
□高畑勲監督の最高傑作は『ホーホケキョ となりの山田くん』である! 厳選5作品からその作家性を語る
悲劇な物語であった『火垂るの墓』の後に『この世界の片隅に』を観れば、「こうして生きていった家族もいるんだな」と、ほんの少しだけ救われるのかも。『火垂るの墓』の後に『となりの山田くん』を観れば、戦争のない現代で、家族が平和に暮していることが、いかに幸せなのかを噛みしめることができますよ。
(文:ヒナタカ)
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