無声映画の楽しさを知るための「7つ」のポイント
4:日本映画界独自の
活動弁士の誕生
さて、いよいよ日本の無声映画事情に入りますが、まずエジソンが開発した覗きからくり方式のキネトスコープが1896年に輸入され、同年11月25日から12月1日まで神戸の神港倶楽部で興行が催されました。
このとき機械の説明などをして場を持たせた上田布袋軒が「日本初の活動写真弁士」とされています。
この直後、リュミエール兄弟が開発したスクリーン投射式のシネマトグラフが輸入され、1897年2月15日より大阪・戎橋の南地演舞場(弁士:高橋仙吉&坂田千駒)にて、3月9日には横浜港座(弁士:中川慶二)にて上映。
一方、エジソンがキネトスコープをシネマトグラフ方式に改良したヴァイタスコープも、同年2月22日に大阪・新町演舞場(弁士:上田布袋軒)で、翌3月6日に東京・神田錦館(弁士:十文字大元)でそれぞれ上映されています(それらよりも先に1896年12月、大阪で上映されたとの新説もあり)。
このとき大阪と東京のヴァイタスコープ公開の宣伝を請け負った広告代理店の店員・駒田好洋(当時19歳)がヴァイタスコープを譲り受け、同年5月より自ら弁士となって《日本率先活動大写真会》と称して各地を巡回するようになりました。
(ちなみに当時シネマトグラフは「自動写真」「自動幻画」、ヴァイタスコープは「蓄動射影」と言った訳語で呼ばれたこともありましたが、最終的にはどちらも合わせて「活動写真」「活動大写真」という呼称で一般化していきます。1898年には高橋弥吉による国産映写機第1号も完成しました)
一方で1897年にイギリスからシネマトグラフの撮影機を輸入した小西写真機店(後のコニカミノルタ)の店員・浅野四郎(当時20歳)が同年12月に『日本橋の鉄道馬車』を撮影・完成させたのが「日本初の映画」とされています。
その後、駒田好洋は浅野に撮影を依頼して完成させた『浅草顔見世』『道成寺』などを1899年6月20日に東京・歌舞伎座にて上映。これが「初の日本映画興行」であり、その中の1本『祇園芸妓の手踊り』が「初の商業公開用日本映画」とされています。
これらは街の風景や舞台を記録したものでしたが、同年9月には日本初の拳銃強盗逮捕をモチーフに駒田好洋&柴田常吉が監督・撮影した劇映画『ピストル強盗清水定吉(別題『稲妻強盗』)』が公開。清水を取り押さえて殉職した警官を演じた横山運平は、「日本初の映画俳優」となりました。
20世紀に入ると1903年に初の映画常設館浅草電気館が誕生し、徐々に映画興行および映画製作が日本全土に広がっていき、1920年代には無声映画の全盛期を迎えます。
映画『カツベン!』はその時期の映画館と弁士の事情を背景にしているのでした。
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