ウィズコロナ時代に考える人対人のこと。『判決、ふたつの希望』は1人の人間として向き合うことの大切さを訴える映画
どうも、橋本淳です。
59回目の更新、今回もどうぞよろしくお願いします。
自粛期間から解除になり、私も仕事などが少しずつ動きだしています。しかし、今までのやり方とは変わりました。感染予防を徹底した現場。芝居のやり取りも最新の注意を払いながら進みます。
現場にはコロナ対策の医療指導の方もいらっしゃり、距離感を保ちつつの台詞のやり取りに指導が入ります。特殊です。
しかし、そうしなければならない時代になってしまいました。解除されたからと、今までの生活に戻れない苦しさと、新しい時代に順応しなければならない焦りを感じます。
自分というより、身の回りにいる大切な方々に感染させないことの大切さを念頭に、生活していきたいですね。
もちろん自分のことも大事にすることは大前提ですが、相手のこともきちんと気遣える余裕を残しておきたい。人間は生きるために”忘れる機能”が備わっていますが、決して忘れてはいけないこともあるんだなと、最近特に思います。その為にも、ここに書いて自分自身を戒めておきます。
人対人のことを考えていたらこんな映画に出会えました。今回はこちらをご紹介します!
『判決、ふたつの希望』
(C) 2017 TESSALIT PRODUCTIONS – ROUGE INTERNATIONAL – EZEKIEL FILMS – SCOPE PICTURES – DOURI FILMS
レバノンの首都ベイルート。キリスト教徒であるレバノン人のトニー(アデル・カラム)は、身重の妻シリーンとアパートで暮らしていた。一方、その近くでは住宅の補修工事のためパレスチナ人の現場監督であるヤーセル(カメル・エル=バシャ)が作業をしていた。
ある時、トニーがベランダで水を流していると、壊れた排水管から下で作業をしているヤーセルに水が掛かってしまう。ヤーセルはトニーの家に行き、ベランダの樋を見せて欲しいと言うが、トニーに他で作業をしろと追い返されてしまう。しかし、ヤーセルは収まらず無断でその排水管を直してしまうが、それに気づいたトニーは補修している排水管を破壊してしまう。そして、その事にヤーセルは怒り、クズやろう!と怒鳴るのだった。
ヤーセルを雇う会社としては、おおごとにしたくはないので、ヤーセルに謝罪に行かせようするが彼はなかなかで出向かない。トニー側としては本人に謝ってもらわないと意味がないと譲らない。会社がなんとかヤーセルをトニーの所へ行かせるが、なかなか謝らないヤーセルにトニーが侮辱する言葉を発してしまう。その一言をきっかけにヤーセルはトニーを殴り、肋骨を折る怪我をさせてしまう。そのことをきっかけに法廷で争う事になる。
やがてお互いに弁護士を雇う事になるが、二人の口論が、”人種が違う2人の裁判”ということでメディアが報じたこともあり、この事はどんどんと大きくなり、国全体をも揺るがす人種問題、難民問題にまで膨れ上がってしまい、、、
2人の大人の口論から、国全体にまで膨れ上がってしまう。きっかけは些細なことなのに、難民や宗教が関わっていき、当人たちそっちのけでどんどん周りが熱くなっていく。なんだかリアルタイムにそう感じる世の中なので、遠くの国の話とは思えず、いま現在我々が抱えている問題だと、とても恐ろしく感じました。
プライドを捨てて、さっさと謝れば解決だったじゃん!と思えてしまう、このすれ違い。ちょっとずらすとコントのようにも見える。しかし、このようなきっかけで、多くの人間が蠢いてしまうんですよね。
謝れば済むと簡単に言えない、国の問題。この映画はここが肝なのかなと思います。
レバノンには多数のパレスチナからの難民が流れている状況。そしてイスラム教徒とキリスト教徒の双方が多く住んでいる。レバノンの状況を詳しく知っていれるとよりこの映画を楽しめます。(もちろん全然知らなくても大丈夫です。冒頭から問題の本質を分かりやすく説明するようなシークエンスもあるので、状況が分かります。私も分からずに見始めましたので。観賞後に色々と調べました。)
面白く見れるポイントとして、レバノンの法律だと、裁判において判事が原告と被告に対し、自由に判決を下していいそうなのです。つまり原告を有罪にも出来るという、なかなかに特殊な法律。このことを思って判事のセリフを見ているとより面白く見れると思います。
PHOTO(C) TESSALIT PRODUCTIONS–ROUGE INTERNATIONAL
そして、互いにつく弁護士。これが父娘なんですね。ここがめんどくさくなる一つの原因。思想が真逆で、父の右翼的すぎる考えに反発する左翼的で人権派な娘。法廷でも弁護士の弁論から、父娘のやり取りにいってしまう。
傍聴席でも、レバノン人とパレスチナ人の野次やら、発言も飛んできて、法廷というか野良でやっているような無茶苦茶な裁判になるなど周りが熱々になっていく。そうなっていけばなっていくほど、当の二人の発言は少なくなっていく。その対比も面白いところですね。
後半でのトニーとヤーセルの無言のやりとりに、泣きました。言葉ではなく、目と表情の変化で、全て伝わるやり取り。素晴らしい。
“キリスト教徒とイスラム教徒”
“レバノン人とパレスチナ人”
という括りとして接するのではなく、2人の個人として、1人1人の人間として、相手と向き合うことの大切さを、この映画から感じます。
どちらにも非があり、間違いがある。
過去を辿れば、原因はもちろんある。
難しい問題です。この映画はすべての人にきちんと考えるべきだと、知るべきだと、しっかり提示している大切な作品ですね。
多くの人に是非見て欲しい作品です。是非鑑賞してみてください。
それでは今回も、おこがましくも紹介させていただきました。
(文:橋本淳)
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