『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』レビュー:今、なぜか大島渚!
ただただ人間同士が
愛し合う『愛のコリーダ』
『絞死刑』『少年』(70)『東京战争戦後秘話』(70)『儀式』がそれぞれカンヌ国際映画祭監督週間部門に、『夏の妹』がヴェネツイア国際映画祭に出品されるなど、世界への飛躍を試みるようになっていた大島渚。
それまで政治・社会的題材を多く採り上げてきていた彼がフランスとの合作で臨み、1976年に発表された『愛のコリーダ』は、愛する男を殺害し、その男根を切り取るという戦前の一大スキャンダル事件として知られる安部定事件の映画化でした。
もっともこの事件は『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』『実録安部定』といった映画でも描かれています(その後も『SADA~戯作・安部定の生涯』など数多く映画化されています)。
しかし『愛のコリーダ』は日本でタブーとされるSEXシーンの本番行為、および局部をあからさまに撮影するという手法に打って出たのです。
このため公開当時の日本ではハードポルノとして大きく騒がれましたが、そういったシーンはすべてボカシの入った修正版としての公開を余儀なくされました。
また本作のシナリオ写真集がわいせつ文書図画にあたるとして、監督と出版社社長が検挙起訴される「愛のコリーダ」事件も勃発しましたが182年に無罪として結審。
この裁判のときの大島監督の発言「わいせつがなぜ悪い!」も当時は話題を集めたものです。
このように日本ではハードポルノ的な次元でスキャンダラスに騒がれがちだった『愛のコリーダ』ですが、性描写がオープンなフランスなど海外では「愛の映画」として正当な評価を得ました。
そのことはおよそ45年の時を経て、まだまだ解禁とはいかないまでも、ある程度までの描出が可能となった現代日本の感覚でこの作品を見据えると、これが「ただただ愛し合う」映画であることが理解できるかと思われます。
この映画、108分の上映時間の大半は男女の絡み合いを描いていますが、それはポルノチックな意味合いでのSEXシーンとは一線を画した「愛情の確認行為」として徹底されています。
女=安部定(松田英子)は狂おしく求め続け、男=吉蔵(藤竜也)は己の限界までそれを優しく受け止め、応え続けていきます。
ふたりの絡みをずっと見ていくにつれ、恐らく多くの観客は「うらやましい……」と憧れることでしょう。
その意味ではハードでも何でもなく、実に優しい愛の作品であり、また男性目線によるわいせつ感も実は皆無で、その意味では男女平等の目線で貫かれていることも今なら理解できるはずです(本作に意外と女性の支持者が昔も今も多いのは、そのせいと考えられます)。
また、そうした男女を結びつける象徴として、ここでは男根が大きくクローズアップされていきます(逆に女性の陰部があからさまに映ることは意外に少ない)
つまりこの作品、人間同士の愛の行為を描くためには、その結びつくツールでもある男根を映さないと成立しないことを悟った大島監督が、日本国内では下世話に騒がれることを覚悟の上で取り組んだ作品であったといえるでしょう。
今の、特に若い世代ならば、そのことをスムーズに理解していただけることかと思われます。
本当にこの映画、「ただただ愛し合っている」事の美しさを描いた作品なのです。
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