インタビュー

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2021年07月03日

【cinemas PR】「なにわの名工」が語る、現代の鳶職とは? ――株式会社北梅組 佐藤正勝さんインタビュー

【cinemas PR】「なにわの名工」が語る、現代の鳶職とは? ――株式会社北梅組 佐藤正勝さんインタビュー

大阪府では、すぐれた技能を持つさまざまな業種の方々を、「なにわの名工」として表彰しています。
鳶職として約40年ものキャリアがあり優れた技術をお持ちということで、平成30年度に「なにわの名工」の一人として表彰された株式会社北梅組の佐藤正勝さんに、鳶職という仕事や、北梅組で働くことについてお伺いしました。


100人、1000人、10000人が乗る足場を作る、それが仕事です。

―― 北梅組の業務は、かなり多岐に渡っているとお伺いしていますが・・・。

鳶職は足場専門、鉄骨専門、橋梁専門などの種類がありますが、ビル建築などの建築土木の鳶職は、最も一般的な鳶職と言えるでしょう。北梅組は、古い歴史のあるお寺などの改修工事から、大型ビルの建築など、本当にさまざまな仕事をやらせてもらっています。

―― では、ビル建築などの他に、お寺の工事なども請け負っていらっしゃる?

北梅組に入る前ですが、私がこの仕事を始めたのは40年前。40年前から鳶職に携わっています。
1980年に完成した東大寺の昭和大修理にも――東大寺大仏殿の鴟尾(しび)の改修や、落慶法要の除幕式にも関わらせてもらって。ヘリコプターが取材に来てね、その時の写真もありますよ。

―― すごいですね。地図にも、歴史にも残るお仕事ですね。

そうですね、それが醍醐味かも。家族にね、自慢するんですよ。大阪国際空港(伊丹空港)の管制塔や、USJ近くのホテルとか、「ここお父さんがやった」ってね。すると「また言ってる」と言われる。(笑)

―― 大きな仕事ですもの、ご家族にも言いたくなりますよね(笑)今まで一番大変だったお仕事は何でしょうか?

一番かどうかはわかりませんが、大阪国際空港(伊丹空港)の管制塔工事は大変でしたね。

60メートルくらいの巨大な足場を、地上から吊って建てなければいけなくて。管制塔のユニットが、高さ20メートルくらい、幅15メートルくらいで、そのくらいの大きさの足場が必要でした。風が強くて、足場を上げるのが昨日も中止、今日も中止・・・、一体いつあげられるんねんって思って。

足場は普通下から積み上げるのですが、その時は馬鹿でかいやつを地上で作ってクレーンで上げたんです。その作業も鳶がします。馬鹿でかい足場を上げるとね、風でまわってしまうんですよ。上の人間と、下の人間と、クレーンの人間達が連携して。鳶たちがね、上で足場が上がってくるのを待っとるんです。

私たちは経験でね、風を読むんです。

―― 風を読むってすごいですね!

実際上げるときは、ジャンボ機が近くにあって、もし落としたらと思うと心臓がバクバクしましたね。

大工事だから取材も来ていて、カメラが回っていて、余計に緊張もするし。

鉄骨なんてピタッと収まらないことも多い。重量物を収めるには難しい技術がいります。

―― それがピタッと収まったときは?

そうですね、歓声が起きます。(笑)

―― 大工事となると、関わる人の人数が違うのですよね?

これは聞いた話ですが、例えばシャープの堺工場を作る時なんて、最盛期は3万人もの工事関係者がいたとか。1日に3万人が工事現場に来ているんですよ。皆が1日の作業を終えて帰る時は、トラック渋滞が起きていたそうです。

我々鳶職というのはね、100人、1000人、10000人が乗る足場を作っています。そして施工ごとに必要な足場は何なのかを――細やかに、過不足無く、無駄な足場を作らず、考えながら作っています。

現場の立ち上がり、つまり準備工事から始まり、最後まで。各施工で必要な足場は何なのかを考え、無駄を最小限に抑えて、現場の最初から最後まで面倒を見ています。鳶職って、そういう仕事なんですよ。

昔と比べれば、業界はかなり変わっているんです。

―― 佐藤さんは40年前から鳶職を始められたということですが、きっかけは何だったのですか?

幼馴染のお父様が、もともと鳶の会社を営んでいて。18歳の時にその友達に、「俺、そろそろ家の仕事を手伝わなければいけない、お前もアルバイトやってみる?」と言われまして。

―― お友達のお父様の会社に入ったのですか?

そうですね、アルバイト程度の気持ちで始めたのですが、そこの親父さんに可愛がって頂いてね。

最初は高いところに慣れるまで怖かったですが、一年経ち、二年経ちすると、自分に合っているのかな、と。奥深い仕事だし、親父さん良い人だし。

―― 修行時代は長かったのですか?

昔は一人前になるのに30年と言われていましたが、それなのに私は10年目で「独立させてくれ」と、親父に言ったんです。「馬鹿野郎」と言われると思ったのですが、「頑張れ」と言われて。

29歳の時に独立して、3、4人の若手と仕事を始め、多いときは10人くらいの若い子を使っていて。

4年前までこの形式だったのですが、4年前に若い子らと全員、北梅組の社員になりました。若い子ら全員というのはイレギュラーな形かと思いますが、最初の親父との出会いも、北梅組に全員が社員になれたというのも、人に恵まれたと思っています。

―― 40年間も鳶の世界にいらっしゃるのは長いですよね。昔と今と、何が違いますか?

我々の業界は3Kと言われて久しいですよね。「キツイ、キタナイ、キケン」と。でも今は、本当はそんなことはないのです。

たとえばこの(インタビュー現場の)詰め所ひとつとっても違います。冷暖房、冷蔵庫完備で綺麗でしょう? お手洗いもね、綺麗なんです。それに一番違うのは、現場のダブルセーフティが確立されているところ。昔は今のように安全設備が整っていませんでしたが、今は違います。安全に配慮されていますね。

力仕事も少なくなりました。昔ほど、肉体を使うことが少ないんです。以前は、物を運ぶには人海戦術で運んでいましたが、今は機械がありますから。どうしてもクレーンが入れないところであれば人手を使うこともありますが、それこそいろいろな建設機械や工法が発達していて、ほとんど機械で運べます。

辛さも減ってる、現場も綺麗で安全になっています。

問題が無い訳ではない。でも、北梅組から変えたい!

―― 3Kを脱却していても、人材不足が問題と伺いましたが・・・?

自分が入った頃と今を比べると、3Kと言われるほどキツくない、と思います。働きやすい職種に変わりつつある。でも確かに、辞めていく人も多い。必要な、なくなることのない職種だと思うので、若い人材を育てていきたいと思いますね。

今はどこの業界も人手不足ですが、建設業界は特に人手不足です。大手をはじめ、我々の業界は、3Kというイメージを変えるのが遅かったのかもしれませんね。

それに現在は、人手不足に付随して、別の問題もあります。大きい現場は、作業が細分化されています。すると、一部のスペシャリストにはなれるのですが、残念ながら全体を見ることができる人材が、業界的に育っていないように見受けられます。監督が図面を見てもわからなかった場合は、現場に任せきりになってしまうのです。建設業界は人手不足だけが問題ではなく、それに起因した、ノウハウの蓄積が不足していることが一番の問題なんです。現場任せになってしまうとね、それぞれの施工間の橋渡しが不足して、どうしても手戻りが多くなる。手戻りが多いというのは、工期の時間を少なくし、資金不足を起こし、結果、事故につながる危険性があるということです。

―― それは問題ですね。

北梅組としては、そこが頑張りどころです。

人手不足、ノウハウの蓄積の不足など、業界全体的には厳しい状況ですが、そんな時代に北梅組はさらに成長して職人の技術を継承し、ゼネコンを助けてさらに活躍していきたいと思います。

鳶職は、現場の最初から最後まで必要な職種です。どんな監督が来ても、現場が遂行できることが一番なんです。「職長が北梅なら安心や」と元受から言われる仕事をすることが一番。

ありがたいことに、「鳶の職長が北梅から来ているから安心だ」と、確かに言われています。

それに私たちの強みは、いろいろな現場を見れるとことです。

元受の監督さんは、一つの現場に入ったら2年か3年は現場にかかりきりになります。10年いても、現場5つくらいしか見れませんが、私たちは10年いたら、何百現場と見ることができますから。

―― なるほど。そこが北梅組で働く強みなんですね。

もう一つ、大事なことがあります。それは職人たちの給与です。

「中小企業だから、これくらいでいいんじゃないの?」という感覚では無く、会社の財布として目いっぱい出せる給与を考えたい。中小企業であっても、職長1000万円級をいっぱい出していこうよ、というのが我々の目標です。

だからね、若い人が「どうせ鳶をやるなら、北梅組でやりたい」と言ってもらえたらいいなと思います。

実際、私は間違いないと思っています。

私は、北梅組は関西では一番だと思っていますし、いろいろな現場経験を積んで早く育ててあげる環境も出来ています。北梅組という会社は、そんな会社なんです。

株式会社 北梅組

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