2021年08月05日

『カウラは忘れない』レビュー:「脱走という名の集団自決」カウラ事件が今の日本人に訴えかけるものとは?

『カウラは忘れない』レビュー:「脱走という名の集団自決」カウラ事件が今の日本人に訴えかけるものとは?



■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」SHORT

カウラ事件とは第2次世界大戦真っただ中の1944年8月5日、オーストラリア東部の田舎町カウラの第十二捕虜収容所で1104人に及ぶ日本軍捕虜が集団脱走を図り、日本人捕虜234人、オーストラリア監視兵4人が命を落とした事件のことです。

この事件をモチーフにした作品としては、かつて石田純一も出演したオーストラリアのTVミニシリーズ「カウラ大脱走」(86)や、最近では山﨑努や小泉孝太郎らが出演した日本のTVムービー「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった―カウラ捕虜収容所からの大脱走―」(08)、オーストラリア映画『WAR OF THE SUN カウラ事件―太陽への脱出―』(10/劇場未公開)などが映画ファンには知られるところ。

この事件の異様性は、アメリカ映画の名作『大脱走』(63)を代表として連合軍側の捕虜脱走が「脱走もまた兵士たちの立派なミッションである」とでもいった前向きな勇ましいものであったのとは真逆に、「脱走すれば敵に撃たれて戦死できる」といった、集団自決的思想に基づく日本人独自の驚愕的な深層心理に基づく脱走であったことに尽きるでしょう。

「生きて虜囚の辱めを受けず」なる日本軍隊独自の戦陣訓を徹底的に叩き込まれていた日本兵は、今更おめおめと帰国することもできないと思い込み、その大半は収容所内で偽名を用い、いかにして名誉の戦死を遂げるべきかを考えつつも、実際のところは自分らをちゃんと人間として扱う収容所内の環境で本来の人間性を取り戻していくことで生きる喜びも見出しており、そうした生と死のジレンマに悩み続けていたのです。

(先ごろリバイバル・ヒットした『戦場のメリークリスマス』でも、連合軍捕虜を統治する当時の日本軍の思想が如実に描かれています)



しかし、実は戦陣訓ができる前の日清&日露戦争のときから既に、日本国内では捕虜になった家の者が村八分に遭うなどの悪しき風潮があり、ひいてはこうした日本独自の深層心理がもたらした象徴的な悲劇がカウラ事件でした。

映画は前半部で事件のあらましなどを生存者の証言を交えながら解説していきますが、映画として興味深いのはむしろ後半、生存者のひとり立花誠一郎さんと地元の女子高校生たちとの交流や、彼女たちがカウラ事件70周年記念行事に出席したり、またそこで事件のあらましを再現した舞台を上演する日本人演劇団などを通して、西洋諸国とはあまりにも真逆すぎる日本人独自の集団心理などが次々と露にされていくところでしょう。

今の自分たちの生活からは想像もできないカウラ事件の真相に驚嘆しつつ、ひとりの少女が「日本の女の子はトイレに一緒に行くとか、その子の服が似合わないと思っても“可愛い”って言っちゃうでしょ」みたいなことを冗談交じりに漏らした瞬間、彼女たちもまた今なお日常の中に同調圧力がもたらされていることに気づかされます。

本作はそうした事件に携わる現代人ひとりひとりの些細な言動から見え隠れする日本人独自の深層心理を暴いていきつつ、そこからもたらされる悲劇が二度と起きないよう、祈りを込めて制作されていると捉えて間違いないでしょう。

監督は『戦場にかける橋』(57)のモデルにもなった、日本軍の泰麺鉄道建設に伴う連合軍捕虜虐待の実態を暴いたドキュメンタリー映画『クワイ河に虹をかけた男』(16)の満田康弘。

今回は脱走という名の集団自決の悲劇を通して、今なお同調圧力に支配されながら空気を読むことに必死な現代日本人に鋭く問題提起を成してくれているのでした。

そして『カウラ「を」忘れない』ではなく、『カウラ「は」忘れない』という、この違いが意味するものも、映画鑑賞後は多くの人が痛感と共に理解できることでしょう。

(文:増當竜也)

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