映画コラム

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2022年10月14日

実写版『耳をすませば』アニメ版とは違う視点で描かれる魅力に迫る

実写版『耳をすませば』アニメ版とは違う視点で描かれる魅力に迫る



アニメや漫画の実写作品には、賛否両論がつきものだ。大人気作になればなるほど、原作のストーリーやキャラクターとの相違点に目が行きがちになる。

1989年に少女漫画雑誌「りぼん」上で発表され、1995年にスタジオジブリがアニメ映画化した『耳をすませば』。なんと本作が2022年10月14日に実写映画として公開される。もはや伝説的とも言える王子様的キャラクター・天沢聖司の10年後の姿を松坂桃李が、彼に恋心を寄せる雫の10年後の姿を清野菜名が演じることでも、話題が集まっている。

何年の時が経とうと、ジブリ作品『耳をすませば』は色褪せることなく、コアなファンも多い。期待の声とともに、不安視する方も少なくないかもしれない。

まずは『耳をすませば』実写版とアニメ版の相違点から紐解きたい。

アニメ版との相違点1. メインで描かれるのは雫と聖司の10年後



小説家になることを夢見る少女・月島雫と、ヴァイオリン職人を志す少年・天沢聖司の恋物語。スタジオジブリが手がけたアニメ版『耳をすませば』は、中学生の二人がほのかな恋心を育む、甘酸っぱく微笑ましいストーリーで構成されている。

読書が好きな雫は、夏休みの間も本が手放せない。先生に無理を言って、閉まっている学校の図書室を開けてもらうほどだ。そんな彼女にとって、借りる本すべての貸出カードに書かれている名前「天沢聖司」が、気になって仕方がない。

その名前からして、きっと素敵な人に違いない。そんな風に想像を巡らせるも、たまたま顔見知りになった聖司は「やな奴、やな奴、やな奴!」と言ってしまうほど、雫にとって気に食わない相手でもあった。

しかし、雫が迷い込んだ雑貨店「地球屋」が、偶然にも聖司の祖父が営む店であったことから、二人の距離は近づいていく。将来、立派なヴァイオリン奏者になるために、イタリアへの留学を検討している聖司。同い年にも関わらず、しっかり自分の未来を見据えている聖司の姿は、雫にとって刺激となる。

……と、アニメ版『耳をすませば』は、こういった調子で進んでいく。雫と聖司の中学生時代をメインに描いているのとは大きく異なり、実写版『耳をすませば』では、二人の10年後の姿が中心になっているのだ。



もちろん、雫と聖司の出会いや、どんなやりとりで仲を深めていったのかも丁寧に描かれているので、安心してほしい。大人になった二人の悩みや葛藤が描写されるとともに、回想として挟まれる中学生時代のエピソードは、アニメファンにとって見逃せないシーンのはず。

リアルタイムでアニメ版『耳をすませば』を見ていた方なら、一度や二度は「未来の雫と聖司はどうなるんだろう?」と想像したことがあるだろう。実写版では、10年後の聖司を松坂桃李が、同じく10年後の雫を清野菜名が演じている。あの当時に思い描いていた雫と聖司の未来が、どのように具現化しているのか。ある種の”答え合わせ”ができる点に、この映画の妙味がある。

アニメ版との相違点2. 聖司の将来の夢

あなたは中学生の頃、どんな夢を抱いていただろうか?

「花屋さん」「ケーキ屋さん」「宇宙飛行士」「警察官」……はたまた最近なら「公務員」「YouTuber」なども選択肢に入るだろうか。小学生の頃よりは少しばかり現実も見えてきて、でもまだまだ大きな夢を見ていたい。そんな狭間の時期かもしれない。



雫と聖司にも、それぞれ夢がある。図書館に通い詰めるほど読書が好きな雫は小説家、そして祖父の営む雑貨店「地球屋」の地下で、せっせとヴァイオリン造りに勤しむ聖司は、その通りヴァイオリン職人になるのが夢だ。

なんと実写版『耳をすませば』では、この夢に変更が加えられている。予告映像の冒頭で聖司が口にしているように、彼の将来の夢はヴァイオリン職人ではなく、チェロ奏者となっているのだ(雫の夢は変わらず小説家のまま)。ちなみに、原作での聖司の夢は「画家」である。原作、アニメ版、実写版で、聖司の夢は3回変わっている



聖司の夢がヴァイオリン職人であるにせよチェロ奏者であるにせよ、夢を実現させるためにイタリアへ留学する展開そのものは変わらない。10年もの間、日本とイタリアで遠距離恋愛することになる雫と聖司は、時間的そして物理的な距離を前に悩み、葛藤することになる。

アニメ版と実写版で、なぜ聖司の夢が変えられているのか? おそらく、10年の時を経て再び心を通わせる雫と聖司を描くにあたり、チェロの演奏があるほうが映画的な見せ方ができるからではないか。

ヴァイオリン職人として大成した聖司が、自身のつくったヴァイオリンを弾いてみせるシーンでも映えると想像するが、制作現場にはさまざまな事情があったのだろう。

ヴァイオリン職人か、チェロ奏者か。あなたは、どちらの聖司がお好みだろうか?

アニメ版との相違点3. 役者・杏が歌う主題歌

映画やドラマの色を決定づける要素として、音楽や主題歌は外せない。シーン展開を印象的なものにするため、映画観賞後の余韻を残すため、音楽や主題歌は重要な役割を果たす。

アニメ版『耳をすませば』においても、それは例外ではない。『耳をすませば』の挿入歌ならびに主題歌となっている、誰もが知る名曲「カントリーロード」。この曲は、雫と聖司の繋がりをより深めたといっても過言ではない。

アメリカで発表された原曲「Take Me Home, Country Roads」に日本語詞をつけてリリースされたこの曲。アニメ版『耳をすませば』では、雫が考えた日本語詞を元に、登場人物たちによって歌われるシーンが挿入されている。

何度も考え直しては、より良い歌詞に練り上げている雫の描写が印象的だ。ふざけて書いたお茶目な歌詞の一部「コンクリートロード」を、聖司にからかわれる一幕もある。本の貸し出しカードや、雑貨店「地球屋」をきっかけに距離が縮まった雫と聖司だが、この「カントリーロード」作詞にまつわるやりとりも、一役買っているのは間違いない

以上の理由から「カントリーロード」は、この映画においてなくてはならない要素のひとつであり、切っても切り離せないものとして記憶している方も多いだろう。

それを前提として、実写版『耳をすませば』では思い切った挑戦に出ている。主題歌は「カントリーロード」ではなく、役者・杏がカバーした「翼をください」になっているのだ。



このアレンジについては、もちろん賛否両論があるだろう。『耳をすませば』=カントリーロードだろう! と思うのも無理はない。筆者はあえて、その強すぎるイメージを払拭することで、より実写版の個性を押し出そうとした制作側の意図があるのではないかと推察する。

アニメ版『耳をすませば』にあった、カントリーロードにまつわる雫と聖司のやりとりは、主題歌の変更によりなくなっている。作詞をする雫の描写もない。その代わりに、「翼をください」をチェロで演奏する聖司の姿や、それに合わせて歌唱する雫の姿が描かれている。

音楽が変わることで、作品の色はガラリと変わる。しかし、とある曲を媒介に心を通わせる男女の真摯な姿は変わらない。名曲「翼をください」の歌詞を見てもらえれば分かってもらえるように、作品に込められたメッセージも自ずと伝わってくる。

アニメ版『耳をすませば』に最大限の経緯を払いつつ、実写版の個性を確立させる手法として、挿入歌ならびに主題歌の変更は大胆だが効果的であると見ている。もちろん、役者・杏の歌声も、作品の余韻を長引かせるのにこれ以上ないほどの素晴らしさだ。

実写版『耳をすませば』に対する”ひとつ”の視点

以上、アニメ版と実写版の主な相違点を挙げた。

アニメ版『耳をすませば』が誇るレジェンド的地位ゆえに集まる、期待と不安は相当なものだろう。どんな実写作品に対しても、矢が集まるのは必然なのかもしれない。



実写版『耳をすませば』は、雫と聖司の10年後の世界をメインに描いた作品である。よって、アニメ版『耳をすませば』とは少しの距離があるのだ。誤解を恐れずに言うならば、いわばパラレルワールドやスピンオフ作品、番外編と似た立ち位置にある。

オリジナルにはオリジナルの良さがあり、番外編には番外編の良さがある。本記事で挙げた3つの相違点を見てもらえれば分かるように、実写版『耳をすませば』はオリジナルに寄せすぎない(言ってしまえば、媚を売りすぎない)挑戦的なアレンジでもって、作品の良さを何倍にも増す試行錯誤を経ている。



中学生時代の聖司を演じた中川翼、雫を演じた安原琉那の初々しさに目が離せなくなるのは必至。そして10年後の聖司を演じた松坂桃李、雫を演じた清野菜名の真摯な熱演も、それぞれのキャリアに跡を残すクオリティとなっている。

基本的には清野菜名演じる雫の視点で物語は進む。10年後、小説家を志しつつも児童書の出版社で編集者として働く雫と、イタリアでチェロ奏者としてのキャリアを積む聖司の遠距離恋愛は続いていた。

しかし、着々と夢に向かっている聖司とは裏腹に、仕事が上手くいかず小説の執筆も捗らない雫は焦りを募らせる。雫の視点から描かれる焦燥と、聖司に対する愛情やるせなさが入り混じった複雑な感情は、繊細な表現が魅力的な清野菜名だからこそ描写し得ると感じる。

作品の特性上、聖司視点の心情描写は最低限だが、だからこそ存在感がある。アニメ版の聖司に感じられる、ある種の特別さとミステリアスさを忠実に引き継いだ佇まいは、松坂桃李の真骨頂と言ってもいい。

10年も離れていて、彼は不安ではないのだろうか。雫のことをどれだけ考えているのだろうか……? 雫自身はもちろんのこと、二人を見守る観客も疑問を覚えはじめるのは致し方ない。しかし、だからこそ結末にかけての聖司の言動には注目してもらいたい。感動のラストシーン、と言ってしまえば食傷気味な表現だが、しっかりと彼なりの誠実さを表した結末になっている。

『耳をすませば』であって『耳をすませば』ではない。中学生だった雫と聖司が成長し、辿ったであろういくつもの人生の”ひとつ”を描き出している。それが実写版『耳をすませば』なのだ。そんな視点をご提案する形で、この記事を締めくくりたい。

(文・北村有)

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©柊あおい/集英社 ©2022『耳をすませば』製作委員会

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