『フェイブルマンズ』から考える、スピルバーグと宮崎駿の共通点・相違点

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昨今、名だたる映画作家による半自伝的な作品が数多く作られている。

グレタ・ガーウィグの『レディ・バード』(2017年)、アルフォンソ・キュアロンの『ROMA/ローマ』(2018年)、ケネス・ブラナーの『ベルファスト』(2021年)、ポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』(2021年)……。

そして、その真打ちとも呼べる作品がついに日本でも公開された。スティーヴン・スピルバーグ監督の『フェイブルマンズ』である。

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『フェイブルマンズ』が描くもの



両親に連れてこられた映画館で、セシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』(1952年)に感激したサミー少年。彼はすっかり映画の虜となり、母親からプレゼントされたカメラで自主映画をたくさん作るようになる。

次第に映画の才能を開花させていくサミー、そんな彼を温かく見守っていく父と母。そのほとんどのシークエンスが、スピルバーグ自身の“記憶”から紡がれたもの。半自伝的どころか、ほぼ自伝的な作品なのだ。

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だが『フェイブルマンズ』は、単に映画を創る喜びに満ちた作品ではない。むしろ、映画というメディアの加虐性&暴力性、その世界に身を投じた若きフィルムメーカーの孤独を描いている。

“感動的な家族ドラマ”などという口当たりのいい常套句には収まらない、不穏な影を撒き散らしているのだ。

美しいものを美しく撮る

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父親の転勤でカリフォルニアに引っ越してきたフェイブルマン一家。そこに待ち受けていたのは、サミーに対する執拗ないじめだった。その主犯格が、典型的なジョックス(体育会系)で、女の子にモテモテで、スクールカーストのトップに君臨する男、ローガン。

だがサミーは、そんな彼のヘラクレスのように躍動する肉体を、黄金色になびく髪を、美しくフィルムに収めていく。そこに、いじめに対する復讐なんて気持ちは介在しない。ただ「美しいものを美しく撮りたい」という、フィルムメーカーとしてのプリミティヴな欲求があるのみ。当のローガンは、その過剰に神々しい自分の姿を見て「こんなの俺じゃない」とショックを受けるのだが。

かつて映画監督のレニ・リーフェンシュタールは、ベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』(1938年)を発表している。オリンピック映画の最高傑作とも称されるほどの作品である一方で、結果的にナチスドイツのプロバガンダとなってしまったために、戦後は大きな非難を浴びることになった。

ナチス党員ではなかったレニ・リーフェンシュタールにとって、国威発揚のためのプロバガンダ映画という想いはなかったのかもしれない。むしろ彼女にとって最も優先されるべきは、選手たちの身体美をフィルムに焼き付けること。「美しいものを美しく撮りたい」という、根源的な衝動があるのみなのだ。

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スティーヴン・スピルバーグはサミーという自分の分身を通して、レニ・リーフェンシュタールにも通じるような“フィルムメーカーとしての欲求”を、ありのままに描いている。

「飛行機は美しい夢」

© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

「美しいものを美しく撮りたい」という芸術家の性(さが)を、自らを正当化することなく、ありのままに描いた日本の映画監督がいる。宮崎駿だ。

プロデューサーの鈴木敏夫は「戦闘機が大好きで、戦争が大嫌い。宮崎駿は矛盾の人である」と喝破している。宮崎駿はただ純粋に、戦闘機の優美なフォルムに魅せられ、陶酔しているだけなのだろう。だが人間を殺めるために製造された兵器に美を見出すこと自体が、オリンピック選手の肉体に美を見出したレニ・リーフェンシュタールと同じように、批判されてしまう行為なのである。

『風立ちぬ』© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

『風立ちぬ』(2013年)は、そんな宮崎駿の想いが詰まった一作だ。この映画は、主人公・堀越二郎の夢から始まる。朝日を浴びた小型飛行機が、美しい田園地帯を渡り鳥のように駆け抜けていく。モノローグもなければ、セリフもない。ただ、空を飛ぶという運動的快感があるのみ。

宮崎駿自身による『風立ちぬ』の企画書の冒頭には、「飛行機は美しい夢」という一文があり、オープニングからその“美しい夢”がファンタジックに描出されている。

 『風立ちぬ』© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

筆者が最も興味深く感じたのは、殺戮兵器を美しく描くことへの葛藤、もがきが(少なくとも表面的には)描かれていないこと。ゼロ戦を設計したことで多くの人間を死に追いやった苦しみが、堀越二郎の行動や発言からは感じられないのである。

齢を重ねて「飛行機は美しい夢」と言い切ってしまえる宮崎駿の精神的境地。イデオロギー的葛藤から解き放たれた、少年のように一途な想いが『風立ちぬ』にはきらきらと美しく輝いている。

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一方で『フェイブルマンズ』を見る限り、同じく老齢のスピルバーグは「美しいものを美しく撮る」ことの暴力性に慎重であるように思われる。葛藤、もがきをいまだに持ち続けているように見える。世界最高の映画監督は、エンターテインメントに奉仕しながらも、その是非について常に逡巡しているのだ。

『フェイブルマンズ』と『風立ちぬ』。偉大な映画作家によるこの2本を比べてみることで、彼らの共通点・相違点がはっきりと見えてくるだろう。

(文:竹島ルイ)

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