映画『渇水』で「最強の凡人」を演じた生田斗真の説得力
画面に映るたびにホッとする磯村勇斗
そんな最強の凡人である主人公・岩切の同僚・木田を、磯村勇斗が演じているのも重要だった。彼は「心が渇ききる寸前」の主人公とは正反対の、なんでも言いたいことを言ってのける、朗らかで親しみやすい人物。仕事だけでなく世の中の理不尽さへの愚痴を気兼ねなく話す様は映画の中で一種の清涼剤となっているし、その言葉が時おり本質をついている時もある。ただ軽薄なだけではない、実は聡明さも感じる、多層的なキャラクターになっているのだ。劇中では(もちろん物語には必要な)ギスギスしたやり取りや、どうにもならない理不尽な出来事が多いこともあって、磯村勇斗が画面に出てくるだけでなんだかホッとするし、この映画にいてくれて本当に良かったと思うことができた。もちろん、マスコット的に存在するだけでなく、彼には物語上でも重要な役割が与えられているので、そのことにも期待してほしい。特に幼い姉妹と、同僚の生田斗真と共に、縁側でアイスを食べる場面も、ほっこりと笑顔になれた。
余談だが、磯村勇斗が出演する『東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編 -運命-』『最後まで行く』『波紋』が、同時期に今の映画館で上映されているという、ある種の磯村勇斗祭りが起きている。特に『最後まで行く』では、今回の『渇水』とは正反対とも言っていい「ただの死体じゃない死体役」を見事に演じているので、合わせて観てみるのもいいだろう。
原作とはまったく異なる結末が意味するもの
実は、この映画『渇水』の結末は、原作とは全く異なる。この改変を不満に思う人もいるかもしれないが、個人的には「こう変えてくれて本当に良かった」と全肯定したい。髙橋正弥監督は、河林満のご遺族に了承をいただいた上で、映画の結末を原作と変えた。そこには「非常に悲しくかつ衝撃的な結末だった」「僕自身にも娘がいるので、原作の少女たちの顛末が消化しきれなかった。映画は希望につながる物語にするために、変えたい」という意思があったのだという。
原作と結末を変えることになったのは、2011年の東日本大震災が起こる少し前だったという。その上で、髙橋監督は「震災を経験したことでさらに、普通の生活に重くのしかかる災害や貧困、格差や差別も大きな要素になりました。そこに、大人たちのシステムに取り込まれていく子供たちの存在を顕在化させたいと考えました」と決意を新たにしたそうだ。
コロナ禍を経た2023年の現在でも、困窮した家へ停水執行をし続ける「仕事としてやるしかない」状況の中にいる水道職員と、そのシステムの中にいる幼い姉妹が置かれた立場は、貧困や格差や差別を描いた物語として、未だなお今日的で普遍的なメッセージを突きつけている。改変された映画の結末は、ある意味で楽観的ではあるが、かと言って安易な救いを与えてもいない、フィクションだからこその「このような辛い現実があったとしても、少しでも心を軽くする物語」として、見事に昇華されていたと思う。
最後に、企画・プロデュースを務めた白石和彌の言葉も記していこう。
人間とは常に何かを渇望している存在だと思うのですが、初めて髙橋さんとお会いした時、髙橋さんからもその「渇望」を感じたんです。潤いのない干からびた世の中で、この物語を何とかしてやりたいと、10年以上も渇望し続けている。原作と脚本、そして監督自身がシンクロした瞬間で、この作品だけではなく、髙橋正弥という映画作家を、もっと世間に知ってもらおうと決意した瞬間でもありました。
この言葉通り、髙橋監督の10年以上に渡る、この映画の企画に込められた渇望は、切実な願いが込められた映画本編の物語とシンクロしていると思う。そのことも踏まえて、この『渇水』の物語を堪能してほしい。
(文:ヒナタカ)
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(C)「渇水」製作委員会