映画コラム

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2019年09月14日

映画監督にとって『デビュー作の風景』が意味するものとは?

映画監督にとって『デビュー作の風景』が意味するものとは?

今回は趣向を変えて、映画のレビューではなく、映画書籍の紹介をさせていただこうと思います。

出版不況などと呼ばれて久しい昨今ではありますが、一方では毎月新刊が山のように発売され、映画書籍もまたすべてを購入することなどおよそ不可能なほどに出まくっている現状。

そんな中で、これは手に取りやすく、映画ファンならちょっといろいろな想いを馳せてもらえるのではないかなと……




《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街406》

『デビュー作の風景 日本映画監督77人の青春』(野村正昭・著/宮崎祐治・絵/DU BOOKSより本体2800円+税で発売中)です。

簡明かつ真摯な語り口で
映画監督の原点を探る好著


『デビュー作の風景 日本映画監督77人の青春』は、もうタイトルからお察しがつくように、77人の日本の映画監督のデビュー作について論考されたものです。

もともとは映画雑誌「キネマ旬報」で90年代後半に連載されていたものを、著者の野村正昭氏がおよそ20年越しの執念で単行本化したもの。

ここには、古くは無声映画時代にデビューしたマキノ雅弘監督から、黒澤明や市川崑などの名匠、大森一樹や森田芳光など撮影所システム崩壊と比例して自主映画などから台頭してきた面々、一番新しいところでは昨年『カメラを止めるな!』の異例の大ヒットでジャパニーズ・ドリームを成し遂げた上田慎一郎など、書籍化のために追加執筆された面々もいます。

野村正昭氏といえば、日本の映画評論家の中でおそらくはもっとも年間鑑賞本数の多いことで知られるツワモノで、邦画も洋画もドキュメンタリーもアニメもお構いなし、試写会があろうがなかろうが関係なく、幼児向け作品もちゃんと映画館に行って見るという徹底ぶりで、一方ではDVD以降の映画ソフト所有枚数も半端ではなく、下手なレンタル店顔負けなほど(「もう整理しきれないよ」と、ご本人はよく嘆いてます……)。

こうした野村氏の姿勢から浮かび上がってくるのは、巨匠だの新人だの、大作だの自主映画だの、ジャンルの別だのと、そういった区別も差別も一切皆無なまま、常にニュートラルな状態で映画と向き合おうという純粋かつ真摯な批評眼です。

実は私も昨年、野村氏と共著で『映画よ憤怒の河を渉れ 映画監督・佐藤純彌』(DU BOOKS刊)を出版させていただきましたが、およそ7年がかりの取材&制作体制の中、氏から教えられることは多々ありました。




超マニアではあれ、ライトな映画ファンを置き去りにするようなマニアックな目線で独り悦に入ることはなく、あくまでも簡明に、それでいて作品そのものだけでなく周囲をめぐる状況まで興味をもってもらえるような筆のタッチは、こちらも常に見習いたいものと思っております。

本著も、戦前から21世紀までの年代順にデビューした監督たちを列記していくことで、作品個々の論考のみならず、さりげなくも日本の映画史を照らし合わせながら温故知新の想いを読む側に抱かせつつ、知識までも身につけさせてくれるものがあります。

もっとも、本書で最初に語られるのは大林宣彦監督。幼いころから自主映画活動をはじめ、1960年代以降はCM界の鬼才として名を馳せ、77年に『HOUSE』で商業映画デビューを果たした大林監督ですが、野村氏が初めて映画の撮影現場を訪問したのが『HOUSE』であり(当時、野村氏はキネ旬「読者の映画評」投稿の常連で、そんな読者を連れて撮影ルポを書かせようという粋な趣旨の企画でした)、そこでの大林監督との邂逅が現在に至る映画人生に大きく影響を及ぼしたことは言うまでもないでしょう。

また本著のトリを飾るのも、同じく自主映画出身で81年に『の・ようなもの』でセンセーショナルな商業映画デビューを果たした森田芳光監督。

思うに70年代から80年代にかけての自主映画活動は、当時低迷していた日本映画界とは真逆の熱気があり、そういった自主映画の旗手たちによる商業映画デビューが野村氏ら当時の若い映画ファンにとって刺激的な事象であったことは間違いなく、その表れが本書の構成にも反映されていると捉えてよいでしょう。

表紙や文中のイラストを「映画イラストにこの人あり!」の才人で、先ごろ国立映画アーカイブで特集展示もされた宮崎祐治氏が担当しているのも、映画ファンとしては本書を手に取りやすい要素ではないかと思われます(もともと連載の時点から宮崎氏がイラストを担当していました)。

映画監督それぞれの
真のデビュー作とは?



さて、映画監督のデビューといっても、実はいろいろなパターンがあります。

かつての映画撮影所では、修業を積んだ助監督を監督へ昇進させるのが常ではありましたが、その場合もいきなり長編を撮らせるのではなく、短編や中編でまず力量を試すということもよくありました。要は短編中編が監督昇進試験で、そこで認められれば長編デビューできるというもの。

たとえば小林正樹監督は52年に44分の中編『息子の青春』を撮り、翌53年に94分の『まごころ』で長編デビュー。大島渚監督は6分の短編『明日の太陽』59を経て、同年62分の『愛と希望の街』で長編デビュー。現在、小林監督のデビュー作は『息子の青春』、大島監督のデビュー作は『愛と希望の街』と通常みなされています(まあ、さすがに6分では……ってのはありますけどね)。

自主映画出身監督の場合、何をもって真のデビュー作と呼ぶのかといったこともあるでしょう。大林宣彦監督は『HOUSE』をあくまでも“商業映画デビュー”という認識で、自主映画を含む映画作家としての彼の真の処女作とは、幼い日に回した8ミリ映画なのかもしれません。

『の・ようなもの』(81)でセンセーショナルに商業映画デビューを飾った森田芳光監督も、自身は自主映画『POS I ―――』(70)を処女作と認識していたとのことですが、実はそれ以前にも69年に『泥土から這い上がった金魚――しかしそれは美しかった』を発表しています(森田監督はこれを8ミリ習作とみなしていたようです)。

その他、共同監督としてデビューした後に単独監督デビューを果たした人、デビュー作を撮ったものの製作サイドに改竄されたものが公開され、それは自身のデビュー作として絶対に認めないとする人(海外ですけど、ジェームズ・キャメロン監督は81年の『殺人魚フライング・キラー』で初めて監督としてクレジットされましたが、実質は悲惨な制作状況の下で途中解雇されていて、そのせいもあって彼自身は続く84年『ターミネーター』こそが真のデビュー作であるという認識でいるようです)、またピンク映画でデビューして評価を得た後に一般映画デビューした監督に対し、映画マスコミは一般映画デビュー作のみをプロフィールに記す傾向もあります。

こういったさまざまな捉え方の中、本書は商業映画デビュー作を基軸とし、長編作品か中編作品かなどはそれぞれの監督の意向を優先。またピンクか一般かといったところも、あくまでも最初に撮った商業映画という点で一貫させています。

思うに商業映画でのデビューとは、やはり入場料金を取って大勢の観客に見てもらうことを目的としたもので、それゆえに製作サイドとのさまざまな交流や確執なども伴いながら、「これを世に放って勝負をかけたい!」といった監督自身の意欲や緊張、不安なども含めた本来の個性がもっとも初々しくも瑞々しく発露され、その後の作品群へ発展させていく上での原点たりえるのではないでしょうか。

その意味では名匠巨匠のデビュー作が決してすべて傑作であるわけでもありませんが、そこに込められた監督それぞれの想いがもっとも汲み取りやすく、映画ファンとして後々のシンパシーを抱かせるものになっていることを、この著者はさりげなく訴えているようにも思えます。

特に映画を好きになってまもない若いファンの方々には、特集上映でもDVDなどのソフトでもネット配信でも何でもいい、ひとりの監督に絞ったラインナップを揃えて、デビュー作から年代順に見ていくことを強くお勧めします。それによって監督の個性や嗜好などがより明確に分かり、ひいては映画そのもののさらなる面白さが増幅されていくことは間違いないでしょう。

本書もまたそのきっかけの一つになってくれることを願ってやみません。

(文:増當竜也)

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