追悼:鈴木清順監督と松竹映画

■「キネマニア共和国」

『けんかえれじい』(66)『殺しの烙印』(67)『ツィゴイネルワイゼン』(80)など数々の名作を手掛けた鈴木清順監督が2月13日に亡くなりました。享年93歳。

またひとり素敵な映画人がこの世からいなくなってしまい、今はただただ哀悼と感謝の意を捧げるのみではあります。

これから数多くの追悼記事などで、彼が日活時代に手掛けた数々のカルト的人気を博した作品群のことが語られていくことでしょう。

ただ、こちらはせっかくのシネマズby“松竹”ですから、鈴木監督と松竹映画について、少しばかり語らせていただければと思います。

なぜならば……。

《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.207》

鈴木監督は松竹から、その映画キャリアをスタートさせているからです。

硬質のロマンティシズムを生み出していく背景

鈴木清順監督は1923年5月24日、東京都日本橋の生まれ。

本人曰く「もっとも楽な方へ都落ち」として青森の旧制弘前高等学校(現・弘前大学)に入学します。

(鈴木監督は92年、母校を題材にした自伝的要素の強い青春オリジナル・ビデオ作品で、後に劇場公開もされた『弘高青春物語』を演出しています。清順作品の奥底に見え隠れする硬質のロマンティシズムは、この時期に培われたのかもしれません)

しかし、43年12月、学徒出陣で応召となり、見習士官としてフィリピン、台湾と転戦し、終戦の翌46年に復員し、48年にようやく弘前高校を卒業します。

同年の春、東大を受験するも不合格となり、鎌倉アカデミア映画学科に入り、9月に松竹大船撮影所の助監督試験を友人の勧めで受けてみたところ合格し、10月からさっそく助監督としての活動を開始しました。

最初に助監督として就いたのは、澁谷実監督。その後、佐々木康、中村登、大庭秀雄などの組を経て、51年『男の哀愁』で、当時の松竹若手監督のひとりでメロドラマの名手でもあった岩間鶴夫監督に就いたのを機に、岩間組専属といっても過言ではないほど多くの作品に就きました。

鈴木監督は後に「岩間監督から特に影響は受けていないけど、映画作りのノウハウは学んだ」と発言していますが、一方で鈴木監督は女優の艶を描出させたらピカ一でもあり、そんな彼の原点は実は松竹メロドラマにもあったのではないかという気もしてなりません。

そんな折、1954年に日活が戦後映画制作を再開するにあたって(1912年に創立された同社は、戦時中の企業統合によって大映に吸収され、戦後は興行会社として復活していました)、各映画会社からスター&スタッフを大量に引き抜き、松竹からも川島雄三や西河克己など数多くの監督や助監督が移籍していきました。

鈴木清順も、同期の斎藤武市や中平康とともに日活へ移籍。どうも先に日活へ移った西河監督から「日活へ行けば松竹の3倍、給料が出る」と言われたことが決め手になったとか⁉ それはともかく、老舗の映画会社・松竹でいつ監督昇進できるかわからない日々を過ごすよりも、若い血を欲している新生・日活に未来の希望を抱くのも当然といえば当然でしょう。

現に日活は若き映画人たちの活気あふれる快作群によって1950年代後半の日本映画黄金時代に大きく寄与し、清順さんも日活に移籍して2年後の56年、『港の乾杯 勝利をわが手で』で監督デビューを果たすのです。

その後の日活時代における活躍ぶり、特に60年代に入ってからの『野獣の青春』『関東無宿』(63)『刺青一代』(65)『河内カルメン』『東京流れ者』(66)など、奇想天外な映像センスによる魅力的なカルト人気作品群を連打しての飛躍と、しかしそれゆえに67年、『殺しの烙印』が当時の日活社長の逆鱗に触れ、やがて解雇事件へと発展していく非常な流れは、おそらく他の識者がいろいろ詳しく書いてくれることでしょうから省略します。

ただ、日活時代のカルト作品群もまた、モノクロorカラーを問わず彼の硬質のロマンティシズムの裏返しであり(もちろん『けんかえれじい』のように、堂々と表返っている一大傑作もありますし、『肉体の門』64『春婦傳』65のように戦争への怒りを露呈させたものも……)、単に見た目のサイケな個性だけでは、決して後世に残り得ていなかったのではないかとも思っています。

そういえば、松竹助監督時代の清順さんはいつも薄汚れた冴えない風貌だったらしく、モダンな作風とおしゃれな身なりの私生活を貫いていた松竹の名匠・木下惠介監督は「あんな小汚い人は絶対に僕の組につけないで!」と言っていたそうですが(実際、一度も木下組に就くことはありませんでした)、いざ彼が日活へ移籍するとき、唯一木下監督だけが「がんばりなさい」と励ましてくれたとのことです。

もしかしたら木下惠介は、鈴木清順が内包するロマンティシズムの才覚を見抜いていたのではないでしょうか?
(ただし彼は、硬質なものは好みではなかったのかもしれませんね。あと、やはり小汚いのも……)

映画人生の後半戦を支えた松竹とシネマプラセット

さて、日活を解雇されてから10年の間、鈴木監督はテレビドラマやCM演出などで食いつないでいきますが、この中には『恐怖劇場アンバランス 木乃伊の恋』(73/完成は70年)のように今なおマニアの間で語り草となっているものもあります。

そんな彼が10年ぶりに手掛けたのが、あの梶原一騎率いる三協プロと松竹が共同制作し、松竹が配給した『悲愁物語』(77)でした。

(C)1977 松竹株式会社

マスコミの力で人気を得た女子プロゴルファーが、人間(というか江波杏子扮するストーカー主婦!)の悪意に対峙しきれずに堕ちていく姿をメロドラマ仕立てで描出していく、久々の清順映画。しかし、ふたを開けてみたら何とも言葉にできない、もはやカルトの言葉すら似合わない、どこか次元を超越した仕上がりになっており、その意味では多くの清順映画ファンを脱力させてしまうものすらありましたが、実はそこにこそ、徹頭徹尾観客に媚びを売らない彼の真髄があるのかもしれません。

またこの時期から、彼は白いヤギ髭の風貌へと変わっていったようですが、同時に『悲愁物語』は彼に映画人としての再起とその勢いをつけさせる結果にもなったような気がしています。

この後、彼は東京タワーの下にドーム型映画館を設置して上映されたシネマプラセット製作&配給『ツィゴイネルワイゼン』を完成させ、80年度のキネマ旬報ベスト1をはじめ数々の映画賞を総なめするとともに、その後も『陽炎座』(81)『夢二』(91)と、シネマプラセットから大正ロマン3部作をものにしていきます。

また『悲愁物語』には東京ムービー新社社長の藤岡豊がプロデューサーとして携わっていますが、その同社が製作した人気TVアニメ『ルパン三世』第2シリーズ(77~80)の52話から監修の任に着きます。これは『殺しの烙印』をはじめ鈴木監督と名コンビの脚本家・大和屋竺が52話以降のシリーズ構成を請け負ったことが、そもそもの大きなきっかけのようです。

さらには劇場用アニメ映画第3弾『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』(85)では、降板した押井守に代わって監督(吉田しげひさと共同)も務めました。

こうした流れの中、萩原健一&沢田研二&田中裕子の共演で、ヨコハマをアメリカに見立てて撮影した、もはやギャング映画なのかどうかすら定かではない怪、いや快作『カポネ大いに泣く』(85)、3人の監督が「結婚」をモチーフに手掛けたオムニバス映画で、鈴木監督が助監督時代以来久々に松竹大船撮影所を訪れて撮影した『結婚』(93/『陣内・原田御両家篇』を担当)、『殺しの烙印』およびその続編シノプシスをベースにした殺し屋活劇で、清順信者を自負する若き映画人が競うように多数スタッフとして参加した『ピストルオペラ』(01)、オダギリジョーとチャン・ツィイーの共演が話題となり、結果として鈴木監督の遺作映画となった『オペレッタ狸御殿』(05/日本ヘラルド映画と共同)と、これらはすべて松竹の配給でした。

日活時代の栄光を間に挟みつつ、意外に鈴木監督が松竹との縁も深かったことも、ほんの少し心の片隅に入れておいていただけたら幸いです。

一方で、大森一樹監督の自主映画『暗くなるまで待てない!』(75)以降、俳優としても活動し続け、一時は映画監督よりもそちらが本業ではないかとからかわれるほど数多くの映画やドラマに出演し続けた鈴木清順。

個人的には映画出演よりも、「ムー一族」(78)の一見ホームレス風の老人(実は大金持ち!)、「みちしるべ」(83)、「美少女仮面ポアトリン」(90)の神様、「私が愛したウルトラセブン」(93)の円谷英二役など、テレビドラマでの好演のほうが記憶に残っています。

私自身は残念ながら一度も清順さんに取材する機会などはありませんでしたが、実は5回くらい、なぜか偶然にも電車の中でお見かけしたことがあります。
(割と2、3年に1回のペースで、電車の路線も時間帯もさまざま)

さすがに面識もないのにお声がけするほど無粋なことはできませんでしたが、いつも飄々とした雰囲気で座席に座ってらっしゃるお姿は、車内でもひときわ目立って見えたものでした。

最後にお見かけしたのは2005年、岡本喜八監督の葬儀の後、帰宅する電車の中で、さすがにそのときは映画の良きライバル=友を亡くされて寂しそうな、そんな気配が感じられてなりませんでした。

世に遺した劇場用映画は49本。その数字の通り、シュクシュクと、しかし桜の花のごとく艶やかな映画を作り続けていった稀代の映画監督に、やはり今は「ありがとうございます」と感謝の意を述べるとともに、今後も彼の作品群と再会していきたいと思っています。

人はいつかいなくなりますが、人が作った映画は永遠に残り続けます……。

ところで、鈴木監督が84年、VHD(このメディアを知ってる人はかなりのマニア!)用に撮ったビデオ映画『春桜 ジャパネスク』(風吹ジュン&伊武雅刀主演)、当時見た印象だとまさに清順桜満開の豪華絢爛たる美しさだったような記憶があります。どこかブルーレイ化してくれないかなあ……。

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(文:増當竜也)

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    ライタープロフィール

    増當竜也

    増當竜也

    増當竜也 Tatsuya Masutou

    鹿児島県出身。映画文筆。

    朝日ソノラマ『宇宙船』『獅子王』、キネマ旬報社『キネマ旬報』編集部を経て、フリーの映画文筆業に就く。

    取材書に『十五人の黒澤明』(ぴあ刊)、『特撮映画美術監督・井上泰幸』(キネマ旬報社刊)など。

    編集書に『40/300 その画、音、人』(佐藤勝・著)『神(ゴジラ)を放った男/映画製作者・田中友幸』(田中文雄・著)『日記』(中井貴一・著)『日記2』(中井貴一・著)『キネ旬ムック/竹中直人の小宇宙』『同/忠臣蔵映画の世界』『同/戦争映画大作戦』(以上、キネマ旬報社刊)

    その他、パンフレットやBD&DVDライナーノートへの寄稿、取材など多数。

    ノヴェライズ執筆に『狐怪談』『君に捧げる初恋』『4400』サードシーズン(以上、竹書房刊)
    現在『キネマ旬報』誌に国産アニメーション映画新作すべてのレビューをめざす『戯画日誌』、『衛星劇場プログラムガイド』誌に、毎月オンエアされる松竹映画名作群の見どころなどを紹介する『シネマde温故知新』を連載中。

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