俳優・映画人コラム

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2018年11月14日

追悼:スタン・リー、愛すべき“スーパーヒーロー”の魂よ永遠なれ!

追悼:スタン・リー、愛すべき“スーパーヒーロー”の魂よ永遠なれ!

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いつかは“その日”がやってくる。けれどその日はずっとずっと先のことなのだろう、と勝手に考えていた自分がいる。数えきれないほど多くのスーパーヒーローを生み出してきた、スタン・リーが95歳で亡くなった。2016年・2017年開催の「東京コミコン」で2年連続の来日を果たし、90歳を過ぎているとは思えない快活な姿を見せてくれたスタン御大。その様子からも、「この人なら100歳を過ぎても変わらず現役でいてくれそう」と感じさせてくれたほどだったが、この世界から旅立たれる日がこんなに早くやって来ようとは正直思いもしなかった。

スタン御大の功績は、もはやここで書き連ねなくともアメコミファンや映画ファンには知られているところだろう。『アメイジング・スパイダーマン』『ファンタスティック・フォー』を皮切りに、『X-MEN』『アイアンマン』『ハルク』『キャプテン・アメリカ』… いけない、書き出せば本当にキリがない。とにもかくにも「マーベル・コミックス」において常に新たなヒーロー像を描き続け、映像化作品においては製作総指揮を務めると同時にさりげなく(まったくさりげなくなかったが)カメオ出演を続けてきたことも、ファンにとっては新作が公開されるたびに1つのトピックスとなっていた。彼の出演シーンは、常に笑顔を絶やさなかったスタン御大らしい茶目っ気による“遊び心”に溢れたもので、まさにその人柄を現していたといえる。

これまでにもマーベル作品を映像化した作品はいくつもあったが、大きな転換点となったのはジョン・ファブロー監督の『アイアンマン』を筆頭とした「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」のはじまりだった。もちろんMCU以前(「マーベル・スタジオ」の独立以前)からヒュー・ジャックマン主演の『X-MEN』シリーズやサム・ライミ監督の『スパイダーマン』シリーズといった作品がマーベル映画の裾野を広げてきた経緯がある。ライバルであるDCコミックスの映像化作品『スーパーマン』や『バットマン』が世界中のアメコミファンを大興奮させたのと同じように、マーベルブランドも着々と浸透してきたなかで迎えた『アイアンマン』の公開。同作は2008年公開なので、このとき製作総指揮を務めたスタン御大はなんと85歳。… 元気すぎる! この前後には『スパイダーマン3』や『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』なども公開されているので、その精力的なフットワークは驚異的だ。その後MCUの集大成である『アベンジャーズ』シリーズはメガヒット作へと成長し、さらにはMCUの新たな顔となる『ブラック・パンサー』が全米で7億ドルの興収をマークしたことも記憶に新しい。

コミックだけでなく映画界にまで革命をもたらしたスタン御大だが、筆者はアメリカンコミックの道は歩んでこなかったため(せいぜいメジャータイトルの認識があった程度)、失礼ながらその偉大さは映画を通してしか触れていなかった。そういった経緯があるので、実はスタン御大の印象といえば(親しみを込めて)“カメオ出演でノリノリのおじいちゃん”というイメージが強かった。もちろんスーパーヒーローを生み続けてきたアメコミ界のレジェンドという認識はあったのだが、本来原作者やライターとは表に顔を出さない存在。そんな人が、自作とはいえ堂々と映画内にその姿を見せるのだから仕方のない話だ。おそらく筆者以外にも“カメオ出演の達人”といったイメージを持つ人が多いのではないか。

それにしてもカメオ出演時の存在感たるや、毎回スタン御大の爪痕の残し方はある意味ズルかった。その役柄をざっと拾い上げてみると、通行人役はもとより郵便局員(『ファンタスティック・フォー 超能力ユニット』)、図書館員(『アメイジング・スパイダーマン』)、バーテンダー(『アントマン』)、DJ(『デッドプール』)などなど職業の幅も広い。地球にいるのならまだマシな方だ。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』では宇宙服を着てまで宇宙空間で“ウォッチャーズ”と語らい、『マイティ・ソー バトルロイヤル』では惑星サカールにてソーのたなびく長髪をバッサリとカットしてしまう散髪屋に扮していた。あの場面はソーだけでなくソーのファンからも悲鳴が上がっていたので、インパクトは十分。もはや遊び心という名のエンターティナー精神は地球に収まりきらず、宇宙にまでたどり着くことになった。さらにいえばライバルであるはずの某最新DC映画にまでカメオ出演を果たしたというのだから、そもそもスタン御大には常識の壁というものが存在しないのだろう。

けれどワクワク感もさることながら、スタン御大のカメオ出演は荒唐無稽なヒーローの存在と現実の世界にいる観客をつなぐ、緩衝材としての役割もあったのではないかと思う。本来なら“裏”にいるはずの原作者スタン・リーが登場することで、その場面は「映画を観ているのか、現実の一部分なのか」と迷うときがある。いうなれば“ドキュメント”の感覚に近いのかもしれないが、スタン御大が登場した瞬間に映画がグッと身近なものに感じられるのだ。映画に登場するヒーローは非現実感的な存在感が強いものの、スタン御大がその作品の世界に介入しているだけで「もしかするとこの作品のヒーローは現実世界にもいるのではないか?」と感じさせる。

例えば、逆に考えてみれば、マーベルヒーローがスクリーンを飛び出して慰問活動を行うこととも似ているかもしれない(もちろんマーベルヒーローに限ったことではないが)。本来なら映画の中に存在しているはずのヒーローが現実の世界に現れ、子供たちを笑顔にする。子供たちにとって非現実のヒーローが“本物”のヒーローになる瞬間であり、作品と現実の垣根が取り払われた瞬間でもある。同じように、スタン御大が現実の世界から映画の中に飛び込むことで観客に夢を与えてくれているような感覚。極端な捉え方でスタン御大なら「いやワシが楽しんでるだけ」といつもの笑顔で答えるのだろうけれど、筆者の目から見てカメオ出演でもスタン御大の姿は輝いて見えていたし、本当に羨ましい生き方だなと夢を見せてもらっていた。それこそスタン御大自身がヒーローの具現化した姿であり、スクリーンを飛び出してきたスーパーヒーローたちにもきっとその遺伝子が組み込まれているのだと思える。その遺伝子はいつまでも受け継がれていくだろうし、そうなることでスタン御大の魂もひとりのヒーローとして永遠に輝き続けるのではないか、と思う。

こうしていろいろ振り返りながら書き綴っていくと、改めてスタン・リーという人物がどれだけ偉大だったのか、アメコミに疎い筆者でもひしひしと感じる部分がある。筆者には映画人としてのスタン御大しか思い描けないが、長年アメコミに触れてきたファンの喪失感はいったいどれほどのものか想像もつかない。けれど、なんとなくだがスタン御大は違う世界(ユニバース)へとふらっと遊びにいって、そちらでも何だかんだ忙しくされているのではないかと不思議なほどイメージが浮かんでくる。ペンを握りしめて新たなヒーローを生み出し、その一方でいつものサングラススタイルであちこち作品に顔を出していたり。もしかするとカメオ出演レベルではなく、手首から糸を出したり鉄製のアーマーを纏ってヴィランと戦っているのかもしれない。

こちらでもその遺志を継いだクリエイターが今後も必ず現れるだろうから安心してほしいし、これを機会にちょっとは休まれても良いのでは? と心配にもなってくる。なってくるのだけど、やっぱりスタン御大は、きっと溢れ出るアイデアを嬉々として形にしているのだろう。

アメコミ界の“スーパーヒーロー”スタン・リー。いままで本当に、素晴らしい“夢”をありがとうございました。またいつか、お目にかかれる日を楽しみにしております。

(文:葦見川和哉)

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