没後30年近くになっても衰えることのない戦後昭和の大スター石原裕次郎の人気

■「キネマニア共和国」

写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたち vol.6

現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。

日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大なる信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

没後30年近くになっても衰えることのない
戦後昭和の大スター石原裕次郎の人気

石原裕次郎

石原裕次郎が1987年7月17日にこの世を去って、既に30年近い年月が経ちましたが、2016年のスカパー!日本映画専門チャンネルでは石原裕次郎特集を10か月にわたって開催、25本の出演映画をオンエアすることが決定しています。

これを機に、今の若い映画ファンも改めて戦後昭和の大スターの魅力に触れていただければと思います。

太陽族から日活の救世主たる
銀幕の大スターへ

石原裕次郎は1934年12月28日、兵庫県神戸市生まれ。

3歳で小樽に引っ越して小学2年生魔ですごしたのち、神奈川県逗子市に転居。

高校時代、バスケットボール部に属し、その練習中に左足の骨を砕いてしまいますが、後年の彼の少し左足を引きずって歩く独特のスタイルは、このときからはじまっています。

バスケ選手の夢を断念して以降、しばらくの間は兄の石原慎太郎が記した小説『太陽の季節』を地で行くような生活になっていったと聞きますが、その『太陽の季節』が第34回芥川賞を獲り、日活で映画化されることになったことから、石原裕次郎の俳優人生がスタートします。

映画『太陽の季節』(56)出演のいきさつには、原作者の弟して撮影現場に顔を出し、ロケ地の案内やスタンドインなど務めているうちに、プロデューサーの水之江滝子に気に入られて、撮影途中で端役で出演することになったという説と、当初石原慎太郎が主演を希望したものの、当時すでに彼は東宝と3本の出演契約を交わした後だったため、それが叶わず、ならば弟を端役でもいいから出演させるよう指示したという説があります。

またこの時期、やはり慎太郎原作の『処刑の部屋』を市川崑監督が大映で撮ることになり、主演に石原裕次郎を希望したものの、裕次郎は大映が提示した3年契約という長期拘束を嫌い、日活と契約したという説もあります。

いずれにしましても、彼は56年4月1日付で日活と契約し、3日の『太陽の季節』撮影初日に現場に参加しているので、2番目の説のほうが有力ではないかと言われています。

『太陽の季節』は大ヒットし、主演の長門裕之以上に注目を集めた石原裕次郎は、続いて兄・慎太郎の原作・脚本『狂った果実』(56)に主演し、ここで後の妻となる北原三枝と初共演し、さらには同名主題歌で歌手デビューも果たしました。

続いて巨匠・田坂具隆監督の文芸大作『乳母車』に主演し、そののびのびとした素直な演技が、太陽族を嫌う世代からも好感を持って認められ、56年度製作者協会新人賞を受賞しました。

57年に入ると、映画『俺は待ってるぜ』に先駆けた同名主題歌がたちまち10万枚を超える大ヒットとなり、映画も『勝利者』『今日のいのち』『海の野郎ども』『鷲と鷹』と、いずれも大ヒットとなり、当時赤字経営だった日活の救世主となり、さらには58年正月に公開された『嵐を呼ぶ男』でその人気は決定的なものになっていきました。

その後も留まるところを知らない人気で、次々と映画主演およびレコードを出し続けていく彼でしたが、60年に入って北原三枝との仲が噂となり、同年12月2日に結婚。年末公開された両者の共演作『闘牛に賭ける男』も空前のヒットとなりました。

石原プロモーションの設立と
70年代テレビへの進出

63年には映画活動の主導権を握るべく、石原プロモーションを設立し、スター・プロダクションの先駆けとなるとともに、その第1回作品として市川崑監督の『太平洋ひとりぼっち』を製作・主演。以後、俳優と製作者、二足のわらじで活動していくことになります。

64年にはアメリカ映画『素晴らしきヒコーキ野郎』(65)の撮影にも参加しますが、キャスティングの決め手になったのは『赤いハンカチ』(64)だったとのことで、このときの監督・舛田利雄が後日ハリウッド戦争超大作『トラ・トラ・トラ!』に起用されるきっかけともなりました。

68年には三船敏郎の三船プロとの共同制作で超大作『黒部の太陽』を完成させ、斜陽になり始めていた日本映画界の中で奮闘し、69年は日活との契約を破棄し、事実上のフリーとなりました。

72年には刑事ドラマ『太陽にほえろ!』でテレビに進出して人気を博し、その後も『大都会』『西部警察』といった刑事アクションドラマシリーズを制作していきますが、逆に主演クラスの映画は『反逆の報酬』(73)が最後となり、映画出演そのものも『凍河』(76)特別出演が最後となり、遺作はアニメーション映画『わが青春のアルカディア』(82)となりました。

彼は71年に胸部疾患に始まり、78~79年にも入退院を繰り返すなど、決して万全の体調ではありませんでした。

80年代に入ると、それがさらに顕著となっていき、86年『太陽にほえろ!』出演後に入退院を繰り返し、87年7月17日、57歳の若さでこの世を去ってしまいました。

亡くなった当時は“裕次郎シンドローム”と呼ばれるほどに日本中が騒然となり、マスコミは彼の死を競って取り上げ続け、追悼上映特集などが組まれました。

その頃の若者たちにとって、正直なところ石原裕次郎は『太陽にほえろ!』のボスのイメージしかありませんでしたが、追悼上映で若かりし日の彼を目の当たりにして、ようやく彼の類まれな映画スターとしての輝きを再認識するようになり、その魅力の伝導も成し得たように思われます。

石原裕次郎はもとより映画黄金時代の銀幕スターには、今のスターとは大いに異なる“何か”が確実にありますが、今の若い世代にもそれをぜひとも見つけていただけたらと願ってやみません。

まずは彼の映画を見てみてください。

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(文:増當竜也)


    ライタープロフィール

    増當竜也

    増當竜也

    増當竜也 Tatsuya Masutou 鹿児島県出身。映画文筆。 朝日ソノラマ『宇宙船』『獅子王』、キネマ旬報社『キネマ旬報』編集部を経て、フリーの映画文筆業に就く。 取材書に『十五人の黒澤明』(ぴあ刊)、『特撮映画美術監督・井上泰幸』(キネマ旬報社刊)など。 編集書に『40/300 その画、音、人』(佐藤勝・著)『神(ゴジラ)を放った男/映画製作者・田中友幸』(田中文雄・著)『日記』(中井貴一・著)『日記2』(中井貴一・著)『キネ旬ムック/竹中直人の小宇宙』『同/忠臣蔵映画の世界』『同/戦争映画大作戦』(以上、キネマ旬報社刊) その他、パンフレットやBD&DVDライナーノートへの寄稿、取材など多数。 ノヴェライズ執筆に『狐怪談』『君に捧げる初恋』『4400』サードシーズン(以上、竹書房刊) 現在『キネマ旬報』誌に国産アニメーション映画新作すべてのレビューをめざす『戯画日誌』、『衛星劇場プログラムガイド』誌に、毎月オンエアされる松竹映画名作群の見どころなどを紹介する『シネマde温故知新』を連載中。

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