俳優・映画人コラム

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2016年01月12日

女の業やエロスをコケティッシュに魅せ続けた若尾文子

女の業やエロスをコケティッシュに魅せ続けた若尾文子

■「キネマニア共和国」

写真家『早田雄二』が撮影した銀幕のスターたちvol.7


現在、昭和を代表する名カメラマン早田雄二氏(16~95)が撮り続けてきた銀幕スターたちの写真の数々が、本サイトに『特集 写真家・早田雄二』として掲載されています。
日々、国内外のスターなどを撮影し、特に女優陣から絶大な信頼を得ていた早田氏の素晴らしきフォト・ワールドとリンクしながら、ここでは彼が撮り続けたスターたちの経歴や魅力などを振り返ってみたいと思います。

女の業やエロスをコケティッシュに
魅せ続けた若尾文子


若尾 文子さん



昨年の夏より《若尾文子映画祭 青春》が開催され、関係者の予想を大きく上回る好評を博し、年が明けた今では東京をはじめ全国各地で上映が拡大され続けています。
留まるところを知らない名優へのリスペクトは、同年代のファンだけでなく若い世代からも「こんなにキュートな女優がいたのか!」といった驚嘆の声で迎えられ続けているのです。

石仏からヒク根の花
そして女優開眼


若尾文子は1933年11月8日、東京市の生まれ。
戦争末期に仙台に疎開し、戦後もそのまま同地に留まり高校に進学。その美少女ぶりは当時の高校生男子の注目の的となり、井上ひさしは彼女をモデルにした憧れのマドンナを据えつつ、自伝的小説『青葉繁れる』を発表したほどです(もっとも彼女自身はそのことを否定しているようで、当時の地元でのあだ名も読書ばかりしている“石仏”だったとのこと)。

やがて再び上京した彼女は、義兄が勝手に大映に写真を送ったことがきっかけで51年の夏、大映5期ニューフェイスとして入社し、大映演劇研究所で翌52年春まで学びました。
(高校時代に大スター長谷川一夫が仙台に来た際「女優になりたい」と懇願したことがきっかけという伝説もありますが、実際は偶然にも劇場の楽屋口で長谷川と出会って声をかけてもらい、思わず「女優になりたいんです」と言ってしまっただけのことであったようです)

同年、大陸婦女子の脱出行を描く『死の街を逃れて』に出演予定だった久我美子が急病で倒れ、その代役として彼女が抜擢され、映画デビューを飾り、それを機に1年で8本の映画に出演。入社の際、永田雅一社長は「スターは高根の花というが、お前は誰にでも届きそうだからヒク根の花だ」と彼女に言ったとのことですが、事実この時期はその親しみやすい存在感が好評だったようです。

翌53年には思春期少女の性の問題を扱った『十代の性典』シリーズに出演します。今の目線では全然何ともない内容でも当時としてはかなりスキャンダラスな話題をふりまくこととなり、それには本人もかなり苦悩していたそうですが、この頃からブロマイドの売り上げが1位になるなどの人気を博しました。

同年、溝口健二監督の『祇園囃子』に気丈な舞妓の役で出演して高い評価を得ますが、その後もプログラムピクチュアへの出演が続き、女優としての充実感をなかなか得られない、そんな苦悩の日々が続きました。

そんな若尾文子の転機になったのが、溝口監督の遺作となった『赤線地帯』(56)で、ここで彼女は汚職で投獄された父の保釈金を稼ぐため娼婦になったやすみを熱演。『祇園囃子』のときは優しかった溝口監督もこのときは鬼のシゴキぶりで、これを機に彼女は女優としての意識に大いに目覚めることになります。

また同年は『処刑の部屋』(56)で市川崑監督と、57年には『青空娘』で増村保造監督と出会います。59年には松竹から招かれた小津安二郎監督の『浮草』に出演しました。

1960年代の大映映画における
秀逸な女性映画群での栄光


デビューして10年目の1961年、28歳になった若尾文子は川島雄三監督と出会い、『女は二度生まれる』で金さえ持っていればどんな男とでも寝る芸者を、続けて増村保造監督の『妻は告白する』(61)で夫と愛人の3人で登山中、事故で宙づりになった夫のザイルを切断する妻を熱演し、61年度のキネマ旬報女優賞など各賞を独占します。

翌62年も『雁の寺』で住職の妾を、『しとやかな獣』では体を武器に男たちから金を巻き上げる女の役で川島作品に出演。
またこの勢いに乗せて、増村監督も『爛』(62)『「女の小箱」より・夫が見た』(64)、『卍』(64)『清作の妻』(65)『刺青』『赤い天使』(66)『妻二人』『華岡青洲の妻』(67)『積木の箱』『濡れた二人』(68)『千羽鶴』(69)などなど、たて続けに彼女の“女”としての業やエロスを際立たせた傑作群を撮り続けていくことになりました。また、これらの功績により、65年度、68年度と若尾文子はキネマ旬報女優賞を受賞しています。

他の監督作品でも、吉村公三郎監督『越前竹人形』(63)、山本薩夫『傷だらけの山河』(64)『氷点』(66)、今井正『砂糖菓子が壊れるとき』(67)『不信のとき』(68)、三隅研次『処女が見た』(66)『雪の喪章』(67)などなど、まさに大映映画はおろか日本映画界の60年代を語る際に絶対外せない大スターとして君臨していったのでした。

71年に大映が倒産して以降は、活動の拠点をテレビ、舞台と広げていき、逆に映画への出演本数はガクッと減ります。これは気に入った企画がなかなかなかったからで、ようやく87年、市川崑監督のSFファンタジー大作『竹取物語』でかぐや姫の養母役で映画界復帰。また88年のNHK大河ドラマ『武田信玄』では震源の母およびナレーションを務め、毎回の締めの言葉「今宵はここまでに致しとうございます」はその年の流行語大賞にまでなりました。

2005年、行定勲監督の『春の雪』に映画出演。今のところ、これが最後の映画出演となっていますが、こらまでに出演した映画の数は160本以上。彼女自身は、あまりの忙しさでそれら完成した作品を見ている暇もないまま、ずっと撮影ばかりの日々だったようですが、たとえば川島雄三監督や増村保造監督らの印象は今も鮮やかで、忘れられないほどの良き思い出とともに恩を感じているようです。

さて《若尾文子映画祭 青春》では、ここに記した名作群はもとより、今まであまり陽の目を見なかったプログラムピクチュア群にもファンの注目が集まっているようです。
思うに映画史に残る名作群の誕生も、撮影に忙殺されるのみだった映画黄金時代の、若尾文子の愛らしくもコケティッシュな存在感の素地があればこそだったのかもしれません。一方で、今はこういったキュートな魅力を銀幕いっぱいに振りまくことのできる女優が日本映画界には存在していないのであろうという、そんな時代の流れを痛感しながらの、若尾文子への賛辞が高まってきているのでしょう。

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(文:増當竜也)

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