夏目雅子は、美しい。
けれど、その一言だけで映画を閉じてしまうのは、少し惜しい。
そばにいるのに、何を考えているのかわからない人。
信じたい相手の嘘に、人生を変えられてしまう人。
家族も恋人も大切だからこそ、簡単には未来を選べない人。
今回の「金曜映画ナビ」で取り上げるのは、『時代屋の女房』『魔性の夏 四谷怪談より』『魚影の群れ』。
人情喜劇、怪談、漁師町の人間ドラマと、まったく異なる世界に立つ夏目雅子の3作品だ。
「伝説の女優」という言葉を、いったん脇に置いてみる。
すると、スクリーンの中にいる女性たちは、思っていたよりもずっと身近で、複雑で、つかみどころがない。
美しさに惹かれて観始めたはずが、いつしか、その人の明日が気になってしまう。そんな夏目雅子に、もう一度出会ってみたい。
※以下、物語の設定に触れますが、結末の核心は伏せています。
『時代屋の女房』――好きだからこそ、聞けないことがある

東京・大井町で、渡瀬恒彦演じる安さんが営む骨董屋「時代屋」。
ある夏の日、猫を抱え、銀色の日傘を差した真弓がやって来る。
夏目雅子演じる彼女は、そのまま店に居つき、安さんと暮らし始める。
村松友視の直木賞受賞作を、森崎東が映画化した1983年の作品だ。
ところが、真弓はときどき、ふらりと姿を消す。
安さんは彼女の過去を聞こうとしない。
戻ってくれば、また一緒に暮らす。
その繰り返しが、二人の関係になっている。
好きな人のことは、何でも知りたい。
けれど、知ってしまうのが怖いこともある。
安さんが踏み込まないのは、真弓の自由を尊重しているからなのか。
それとも、知った先で傷つくのを避けているからなのか。
彼の態度は、優しさにも、臆病さにも見える。
一方で、真弓を「気まぐれな美女」とだけ受け止めると、見落としてしまうものがある。
誰かと暮らすようになっても、その人に説明していない時間や、明け渡せない領域は残る。
彼女の謎めいた存在は、そんな当たり前のことを思い出させるのだ。
一緒にいることと、相手のすべてがわかることは、同じではない。
この映画の恋愛がいま観ても面白いのは、二人の距離を、ただ「仲がいい」「すれ違っている」のどちらかに整理できないからだろう。
近づいているようで、届かない。
そのもどかしさが、親密な時間にも影を落としている。
一人二役が見せる、「似ている」と「同じ」の違い
本作で夏目が演じるのは、真弓だけではない。
彼女によく似た別の女性、美郷も演じている。
美郷は東京での暮らしをたたみ、東北の郷里へ戻って結婚しようとしている。
その人生の節目で、安さんと出会う。

同じ俳優が、二つの人生を生きる。
この一人二役は、観客に「同じ顔だ」と気づかせるためだけの仕掛けではない。
誰かの面影を別の誰かに重ねても、その人の過去や、これから選ぼうとしている人生まで同じになるわけではない。
その隔たりを、物語の中に持ち込んでいる。
真弓が気になる。
美郷の寂しさも気になる。
そして、二人の間で揺れる安さんの不器用さにも、どこか心当たりがある。
謎の美女が男を振り回す物語として眺めるより、誰もが少しずつ孤独を抱えた、大人たちの恋愛喜劇として観る。
そのほうが、夏目の一人二役は、ずっと豊かな表情を見せてくれる。
『魔性の夏 四谷怪談より』――幽霊より先に、人間が怖くなる

『時代屋の女房』から、少し時間をさかのぼろう。
1981年公開の『魔性の夏 四谷怪談より』は、蜷川幸雄が鶴屋南北の『四谷怪談』を映画化した作品だ。
夏目が演じるのは、お岩ではなく、その妹のそで。
姉のいわを演じるのは関根恵子、そでの夫・与茂七を演じるのは勝野洋である。
そでの側から物語をたどると、この映画の恐ろしさが違って見えてくる。
父を失い、夫も殺されたと思っている彼女。
その悲しみにつけ込むように、そでを自分のものにしようとする直助が近づく。
彼は、悲劇に関わっていながら、仇討ちに力を貸すと申し出るのだ。
助けてくれる相手が、本当に自分の味方とは限らない。
支えだと思っていた関係が、実は逃げ道をふさいでいるのかもしれない。
こうした状況の怖さは、幽霊を信じるかどうかとは関係がない。
そでの悲劇には、他人の欲望によって、自分の人生を勝手に決められてしまう恐ろしさがある。
松竹が本作を「青春群像ドラマ」と紹介しているのも興味深い。
キャラクターや台詞には現代的な視点が取り入れられ、古典の怪談に、追い詰められていく人々の切迫した感情が重ねられている。
怖い顔が現れることよりも、信じている顔の裏側が見えないこと。
その不安から観てみたい『四谷怪談』だ。
『時代屋の女房』では、真弓の行動を男が理解しきれない。
こちらでは、男たちの嘘や思惑によって、そでの人生が変えられてしまう。
同じ夏目雅子が演じていても、人物の置かれた場所は正反対だ。
「可憐」「魔性」といった言葉を先に当てはめるより、その女性が何を知らされず、何を信じようとしているのかに目を向ける。
すると、怪談の中にいるそでが、遠い昔の人物ではなくなってくる。
『魚影の群れ』――愛している。でも、その生き方まで引き受けられるか

青森県・大間。
マグロの一本釣りに生きる漁師・小浜房次郎を緒形拳、その娘トキ子を夏目雅子、トキ子の恋人・依田俊一を佐藤浩市が演じる。
吉村昭の小説を相米慎二が映画化した、1983年の『魚影の群れ』だ。
俊一はトキ子との結婚を望み、漁師になると申し出る。
しかし、命を賭けて海に向き合ってきた房次郎にとって、それは簡単に受け入れられる言葉ではなかった。
好きな人と一緒になりたい。
願いそのものは単純でも、その先にある暮らしは単純ではない。
どこで働き、どこに住み、どんな家族になるのか。
この映画では、恋愛の向こう側に、海と労働と生活が横たわっている。
トキ子の側から見れば、父と恋人の対立は、男同士の意地の張り合いで片づけられる問題ではない。
どちらの選択も、彼女自身の未来につながってしまうからだ。
父を大切にすることと、父の望む人生を生きることは違う。
恋人を愛することと、その生き方をすべて受け入れることも違う。
この区別の難しさが、トキ子という人物を、いまの私たちにも近づけてくれる。
「漁師の娘」である前に、一人の女性として

本作にはもう一人、見落とせない女性がいる。
十朱幸代演じる、トキ子の母・アヤだ。
家を出た妻の存在は房次郎の中に残り、娘まで自分のもとを去るのではないかという恐れにつながっている。
娘を守りたい気持ちと、娘にそばにいてほしい気持ち。
その二つは、似ているようで違う。
トキ子を「頑固な父と恋人の間で揺れる娘」とだけ捉えると、父や恋人を中心に彼女の人生を見てしまう。
けれど、自分の未来をどう選ぶのかという視点に立てば、この物語の重心は少し変わる。
親から受け取ったものを、そのまま引き継ぐのか。
親とは違う暮らしを求めるのか。
愛する相手のそばにいるために、どこまで自分を変えられるのか。
海へ出る男たちの格闘と同じくらい、陸にいる人々の選択も切実なのだ。
夏目のトキ子を見つめていると、「漁師の娘」という説明では足りなくなる。
家族の一員であり、恋人でもあり、そのどちらにも収まりきらない一人の人間。
その複雑さに目を向けたとき、『魚影の群れ』は、男たちだけの海の物語ではなくなる。
「早く撮らせろ」――相米慎二を動かした、役を生きる力

では、夏目はどのようにして、その土地に暮らす人物へ近づいていったのか。
撮影に参加した榎戸耕史は、2015年に早稲田松竹で行われたトークで、夏目が方言指導のスタッフの家に通い、食事を共にしながら、土地になじもうとしていたと振り返っている。
言葉を覚えるだけではなく、その言葉を使う人と時間を過ごす。
役を、自分の外側にある衣装のように扱わず、暮らしの感覚から近づいていこうとする姿勢が、この証言からうかがえる。
同じトークで榎戸は、終盤の撮影についても印象的な話をしている。
夏目の芝居がすでにできあがっていて、いつもは何度もテストを重ねる相米が、その場面では「早く撮らせろ」と言ったという。
ここで結末の詳細には触れない。
ただ、この短い言葉は、彼女の仕事を考えるうえで忘れがたい。
夏目がつくり出したものを、監督がすぐに撮りたいと思った。
そう受け止めると、「名監督に魅力を引き出された女優」という説明だけでは足りなくなる。
監督から与えられるものを待つだけでなく、俳優の側から、その場面の力を生み出していたことが見えてくるからだ。
自然に見える演技の向こうに、土地の人と過ごした時間がある。
そして、カメラが捉えたくなる瞬間を、自分の芝居でつくる力がある。
夏目雅子の魅力は、ただ美しく写ることではない。
その人物の人生を、こちらが信じたくなることなのだ。
いま観る理由は、「懐かしい」だけではない
『時代屋の女房』と『魚影の群れ』の演技で、夏目は1984年の第7回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞している。
映画俳優としての仕事は、生前から評価されていた。
一緒にいる相手を、どこまで理解できるのか。
信じている関係の中に、どんな力の偏りがあるのか。
家族や恋人を愛しながら、自分の未来をどう選ぶのか。
今回の3作品をつなぐのは、美しいヒロインが登場するという共通点だけではない。
人と人が関わるときの、簡単には解けない問題がある。
しかも、夏目はそれぞれの作品で、まったく異なる場所から、その問題を生きる人物を演じている。
だからこそ、一本観て知ったつもりになるのは惜しい。
『魚影の群れ』には、スクリーンで出会い直す機会もある。
「没後25年 相米慎二 4Kレストア」の一本として、4Kデジタルリマスター版が2026年11月27日(金)から、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほかで全国順次公開される予定だ。
あの頃を知っている人は、記憶の中のイメージを少し離れて。
名前や写真しか知らなかった人は、立派なプロフィールを覚えるより先に、気になる一本から観てほしい。
「昔の美人女優を知る」つもりで観始めたはずが、気づけば、一人の女性の選択を見つめている。その変化にこそ、映画俳優・夏目雅子の凄さがある。
美貌は、入口にすぎない。その先に、まだ知らなかった夏目雅子がいる。
作品情報・視聴案内
『時代屋の女房』
製作年:1983年
監督:森崎東
出演:渡瀬恒彦/夏目雅子/沖田浩之/中山貴美子/平田満/藤田弓子/藤木悠/大坂志郎/朝丘雪路/津川雅彦
(C)1983 松竹株式会社
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『魔性の夏 四谷怪談より』
製作年:1981年
監督:蜷川幸雄
出演:萩原健一/関根(高橋)恵子/夏目雅子/森下愛子/小倉一郎/石橋蓮司/勝野洋
(C)1981 松竹株式会社
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『魚影の群れ』
製作年:1983年
監督:相米慎二
出演:緒形拳/夏目雅子/佐藤浩市/矢崎滋/下川辰平/三遊亭円楽/十朱幸代
コピーライト:(C)1983 松竹株式会社
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