俳優・映画人コラム

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2016年05月01日

「な?」と微笑んだときの偉大なる映画スター三船敏郎の人間的魅力

「な?」と微笑んだときの偉大なる映画スター三船敏郎の人間的魅力


三船プロダクションの設立
80年代後半の栄誉


一方では62年に三船プロダクションを立ち上げ、63年には自らの監督・主演で『五十万人の遺産』を発表。その後も岡本喜八監督『侍』『血と砂』(65)、稲垣浩監督『風林火山』(69)『待ち伏せ』(70)、沢島忠監督『新選組』(69)などを製作。石原裕次郎の石原プロと提携した熊井啓監督『黒部の太陽』(68)も大ヒットし、邦画メジャー会社の枠を超えたスターによる映画製作を成功させていきました。

もっとも、三船プロダクション社長としての立場によって、70年代以降はおいそれと海外映画に出演することが出来なくなり、それゆえに断った作品の中に『スター・ウォーズ』(77)があります。

黒澤映画ファンのジョージ・ルーカス監督は、当初オビ・ワン・ケノビの役を彼にやってもらいたかったのですが、残念ながらそのオファーを受けることは叶いませんでした。

また、同じ理由で彼が出演できなかったのが、黒澤監督がソ連に招かれて撮った『デルス・ウザーラ』(75)で、これが実現していたら、もしかしたら名コンビ復活となり、その後もなにがしかの新作が誕生していたかもしれません。

(三船敏郎は『デルス・ウザーラ』をモスクワで撮影中の黒澤監督を陣中見舞いしています)

そんな彼ですが、87年、山田洋次監督による『男はつらいよ 知床慕情』に無骨ながらも純粋な中年男の役で出演し、この年の助演男優賞を多数受賞。

さらに89年、熊井啓監督の『千利休 本覺坊遺文』で千利休を堂々たる貫録で演じ、各方面で喝采されました。

この流れで、彼は熊井監督の『深い河』(95)にも出演し、結果としてこれが彼の最後の映画出演となりました。

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