「な?」と微笑んだときの偉大なる映画スター三船敏郎の人間的魅力
三船敏郎を取材しての
鮮烈な記憶
実は私自身、この時期、三船敏郎さんに取材させていただいたことがあります。
これから話すことは以前『オールタイム・ベスト映画遺産 日本映画男優・女優100』(キネマ旬報社・刊)にも記したことのあるエピソードですが、やはり三船敏郎というと、私にはこの思い出が鮮烈に記憶されてしまっているので、再度書いてみたいと思います……。
私が「キネマ旬報」編集部に入って間もない92年の初夏、東宝創立60周年記念特集が企画され、その中で三船敏郎さんに300字程度のコメントをもらおうということになり、何とペエペエの私が電話取材することになりました。
さっそく三船プロに電話をかけると、ご子息で社長の三船史郎さん曰く、三船敏郎さんは電話取材が嫌いなので直接来て話を聞いてほしいとのこと。
当時まだ20代後半の若造が“世界のミフネ”にじかに会えるという緊張で、もうガチガチに震えながら、私は成城の三船プロへ向かいました。
応接室で心臓をバクバクさせていると、まもなくしてご本人が中へ!
その風情は『用心棒』(61)の桑畑三十郎さながら、どこか不機嫌で苦虫を噛み潰したような、そんなオーラを全身から発散させていました。
こちらは『椿三十郎』(62)の若侍のように一気に委縮しつつも踏ん張って、まずは東宝入社のいきさつからお聞きしてみた……のですが?
「おう! あのとき撮影所に戦車が来てな!」
何と、三船さんはいきなり、あの「来なかったのは軍艦だけ」とも称された東宝争議の話を威勢よく語り始めたのです。
「当時のあなたのオーディションの話とかをしゃべってください!」などとはとても怖くて言えないままでいたら、いつのまにか三船さんの話は脱線し、ついには日露戦争がどうだのと、おかしな方向へずれていきました。
ならば、ちょっと視点を変えて、デビュー作『銀嶺の果て』(47)へと何とか話を移行させてみた……ところ?
「おう!『銀嶺の果て』の監督は千ちゃん(谷口千吉)だ。千ちゃんはな、黒澤明の友達なんだぞ……。ほら、見てみろ!」
と、三船さんはたまたまテーブルの上に置いてあった三船プロ特製パンフレットをめくりながら、その中に記載されている自身のフィルモグラフィを指差し始めたのです。
「ほら、これ(たとえば『酔いどれ天使』48を指さして)は、黒澤が監督だ。黒澤は千ちゃんと友達なんだ。これ(『ジャコ萬と鉄』49)は千ちゃんが監督だ。千ちゃんはイノさん(本多猪四郎)の友達なんだ。これ(『太平洋の鷲』53)はイノさんが監督だ。イノさんは黒澤の友達なんだ。で、これ(『蜘蛛巣城』57)は黒澤だ。黒澤は千ちゃんの……」
三船さんは延々と黒澤&谷口&本多、偉大なる三監督のタイトルを指差しては、その終わることのない友情の輪を口にし続けていくのでした。
次第に自分が三十郎の謀略にはめられていくかのような、そんな甘美な恐怖に包まれていきます……。
ならば、それを払拭すべく!
「あの、三船さんは海外の映画にもいっぱい出てらっしゃいますね?」
東宝60周年とは関係ない質問ではありましたが、実はこちらが本当に聞きたかったのは、これだった!
すると三船さん、ガバッと立ち上がり、いきなりスペイン語を1分ほど延々まくしたてた!?
(失礼ながら、そのときの彼は『独立愚連隊』(59)の発狂した将校役を彷彿させるものがありました……)
「どうだ! 俺は初めての外国映画(メキシコ映画『価値ある男』61)の台詞を全部覚えて演ったんだぞ!」
「えっへん!」とばかりに胸を張る三船さんに、どこか『七人の侍』(54)の菊千代を見出しつつも、私の頭の中は真っ白になりかけていました。
呆然としたこちらの顔をニヤニヤ眺めながら、三船さんは続いて戸棚から古いアルバムの束を取り出し、中をめくり始めました。
そこには『グラン・プリ』(67)のジェームズ・ガーナーや『太平洋の地獄』(68)のリー・マーヴィン、『レッド・サン』(71)のアラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンなどなど、これまで共演した海外スターとのプライベート・ショットや、海外の映画祭に出席した際の映画人との写真などが、山のようにファイルされていました。
これぞ“世界のミフネ”たる所以!
こちらの興奮は収まるどころか、もう眩暈すらしてきそうな中、三船さんは楽しそうに話しかけてきます。
「ほら、この人はチャップリンだ。この人はヒッチコックで、この人はヘンリー・フォンダだな……ん? お前、この美人さん、誰だかわかるか?」
「グレース・ケリーですか?」
「OH!GRACE KELLY!」
そのとき、まるでアル・ジョルソンのように両腕を大きく広げて彼女の名前を英語発音で叫んだ“エンターティナー”三船敏郎を目の当たりにして、ついに私の意識は完全にぶっ飛んでしまいました。
正直、その後の記憶はあやふやです……。
しかし三船さんは、ずっとこちらに何かを楽しく語りかけてくれた。そのことだけは覚えています。
また三船さんは、時折こちらを覗きこむように、「な?」と笑顔を向けてくれるのですが、それは『無法松の一生』(58)の主人公のようにやんちゃで可愛く、しかも男が男に惚れるとでもいったエロティシズムまで感じさせるものがありました。
……気がつくと、3時間ほど時間が経過していました。
これはもう取材どころではなく、いわばフィルムのない生の《三船敏郎映画祭》をずっと見ていたかのような、少なくともこちらは『ゲンと不動明王』(61)のゲン少年のように不可思議な体験をしたかのような感慨に包まれていました。
三船プロを後にするときも、三船さんは門の外まで出て、腕組みしながら立ち尽くし、こちらが見えなくなるまでずっと笑顔で見送ってくださいました。
最初こそ三十郎のようにおっかなく思えた偉大なる映画スターは、いつしか『赤ひげ』(65)の新出去定先生のような慈愛深い存在としてこちらの脳裏に強く焼き付けられることになりました。
ちなみにそのときのコメント原稿ですが、取材に3時間も費やしながら、私はたった300字の原稿を埋めることができず、こちらで文章を創作するという(もちろん三船プロの許可はとった上で)、恐るべき結果となったのでした……。
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