映画コラム

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2017年09月29日

なぜ『天空の城ラピュタ』は飛び抜けて面白いのか?キャラの魅力と宮﨑駿の作家性から理由を探る

なぜ『天空の城ラピュタ』は飛び抜けて面白いのか?キャラの魅力と宮﨑駿の作家性から理由を探る

(C)1986 Studio Ghibli

『天空の城ラピュタ』がアニメーション映画における、飛び抜けた名作であることは言うまでもありません。魅力たっぷりのキャラクター、幻想的な世界観、ワクワクが詰まった活劇……ただただ観ていて楽しく、面白く、幸せな時間を過ごせるばかりか、何度観ても新しい発見があるのですから。

本作の面白さがどこにあるのか、ということは、宮﨑駿監督による以下の“企画の覚え書き”においても、端的かつ正確に表れています。

『天空の城ラピュタ』が目指すものは、若い観客たちが、まず心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画である。笑いと涙、真情あふれる素直な心、現在もっともクサイとされるもの、しかし実は観客たちが、自分自身気づいていなくてももっとも望んでいる、相手への献身、友情、自らの信ずるものへひたむきに進んでいく少年の熱意を、てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ることである。

若い観客が大いに楽しむことができ、主人公の少年の熱意がしっかり観る人に伝わる……確かに、これこそが『天空の城ラピュタ』の面白さの理由の1つですね。

ここでは、さらに細かく「なぜ『天空の城ラピュタ』は面白いのか?」という理由を、キャラクターの魅力を主軸に、さらに語っていきます。本編のネタバレに触れているのでご注意を!

1:パズーも閉塞感に苦しんでいた?“どうしようもない現実の問題”が描かれていた!

(C)1986 Studio Ghibli

映画において、登場人物の人となりや世界観を示すために、初めに日常や説明のシーンを長く描くことがままあります。もちろんそれは作品に必要なものですが、意地悪な言い方をすると“何も事件が起こらない”ということでもあるので、退屈に感じてしまうことも少なくはないでしょう。

しかし『天空の城ラピュタ』では、いきなり海賊が飛行船に来襲するという活劇から物語が始まっています。その後も、シータとパズーの交流や、ドーラ一家のコミカルなシーンを挟みながらも、アクションやスペクタクルの連続で、観客をどんどん引き込んでくれます。

重要なのは、こうした見せ場が連続であるのにも関わらず、登場人物がいずれも魅力的であり、しっかり感情移入ができることです。それは、ごくわずかな日常のシーンだけでも、彼らがどういった人間であるか、どういう生活や人生を送ってきたかがわかるからでしょう。

例として、序盤のパズーが働いているシーンを振り返ってみます。街のおじさんが「めずらしく残業かい」と聞くと、パズーは「うん、今日は久しぶりに忙しいんだ」と答えており、これだけでも「この少年は働き者なんだな」「人に好かれているんだな」とそれとなくわかります。それでいて、鉱夫たちが後に「銀どころかスズさえねぇ」などとこぼし、親方は「残業はなしだ」と言ったことで、炭鉱の未来が決して明るくない、しかもパズーがどれだけ努力をしてもそれは変わらないという、現実的な問題があることも理解できるのです。

パズーはどんな時もまっすぐで気丈な性格に見えますが、まだほんの12、13歳の子どもです。文句も言わずに仕事をこなしてきたとしても、不安と閉塞感でいっぱいの日々を過ごしていたのでしょう。彼が気持ちのいい朝にハトたちを開放してラッパを吹くこと、シータに「君が空から降りてきたとき、ドキドキしたんだ。きっと、素敵なことが始まったんだって」と言ったことなどには、“(苦しい)現実から開放されたい”という気持ちが表れていたようにも思えます。それは同時に、「現実を忘れてワクワクする冒険がしたい!」という観客の気持ちにもシンクロしているのです。

(C)1986 Studio Ghibli

また、パズーは念願だったラピュタへの冒険の旅に出たとしても、決して“ただ楽しむ”だけではありません。ドーラに「飛行石を持たないお前たちを乗せて何の得があるんだい?」と問われると、まっすぐな瞳のまま「働きます」と言うのです。どんな状況でも、パズーのマジメで勤労的な性格はまったくブレてはいない。この一貫したキャラクターの魅力がパズーにはあるため、誰もが彼のことを大好きになれるのではないでしょうか。

さらに、前述した炭鉱の“どうしようもない現実の問題”は、後にシータから(パズーを守るために)「ラピュタのことを忘れて」と言われ、ムスカから金貨を受け取って帰るしかなかった、というシーンにもつながっています。このパズーのとてつもない悔しさを描いてから、豪放磊落なドーラ一家とともにシータを救いに行き、そしてパズーの勇気こそが彼女を救うという……何というカタルシスでしょうか!

『天空の城ラピュタ』のアクションの連続に本気でハラハラドキドキでき、応援できる。その面白さの根源には、こうして主人公のパズーの魅力を、わずかな時間でしっかりと描ききっていたこともあるのでしょう。

余談ですが、宮﨑駿は本作が“子ども(若者)のための映画”にしたいというこだわりがあったようで、キャラにもっと陰影をつけるためにパズーの年齢をもっと上にしようと鈴木敏夫プロデューサーが提案したところ、「小学生に見せる映画だ。年齢をあげたら元も子もない!」と怒ったのだそうです。確かに、パズーはあの年齢だからでこそ、その純粋さが際立ちますし、(詳しくは後述しますが)その性格が豪快な海賊たちや、凶悪な本性を隠しているムスカとの“対比”として生かされているように思えます。

2:シータは“やる時はやる”気丈な性格だった!

(C)1986 Studio Ghibli

ヒロインのシータは、おどおどしていて気弱なようにも見えますが、決して“守られるだけ”の存在ではありません。

なにせ、シータは初っ端からラスボスのはずのムスカを後ろからビンでぶん殴って気絶させたり、軍隊に囲まれた時は捕まえた男の腕をガブッと噛んだり、見張り台から離れないのでドーラに「お前は女の子だよ?」と問われると「あら!おばさまも女よ。それに私、山育ちで眼はいいの。パズーもそうしろって!(※パズーはそう言ってない)」と返したりなど、“やる時はやる”性格なのです。汚い台所を片付ける時に腕まくりをして気合を入れるなど、仕事には一生懸命なところもパズーと一緒ですね。

秀逸なのは、牢屋に入れられたパズーが開放され、シータに再会したシーンです。この時にシータは、パズーの後頭部にそっと手を回しているのです。パズーから「ぼくの頭は親方のゲンコツよりかたいんだ」と、ムスカからは「あの石頭は私のより頑丈だよ」と言われていたからでこそ、シータは彼の無鉄砲さを心配して、頭をケガしていないかと手を回したのでしょう。こんなわずかな描写からでも、彼女の優しく、誰かを慮る性格がわかるのです。

宮﨑駿作品を振り返ってみると、“お城に囚われて王子様を待つだけ”というヒロインはほとんどいません。男を圧倒するほどに気が強かったり、揺るがない価値観を持っていたり、はたまた『ルパン三世 カリオストロの城』や『千と千尋の神隠し』のように一見して弱そうであっても、冒険を経て心の強さを手にしていったりもするのですから。

こうした自ら運命に立ち向かっていくようなヒロインも、宮﨑駿作品の大きな魅力です。

3:ドーラのイメージは“お母さん”であり“大人らしい大人”だった!

(C)1986 Studio Ghibli

『天空の城ラピュタ』を語るにおいては、海賊の首領であり、豪快だけど心根は優しい老婆のドーラは外せません。面白いのは、ドーラは序盤こそ悪人に見えるものの、どんどん彼女の“良い人”の部分が明らかになっていくこと、そして実は冒頭でも根っからの悪人ではないことが示されていることです。

例えば序盤の襲撃シーンにおいて、軍隊は銃で応戦する一方、ドーラ一家はマスタード榴弾(※マスタードガスではなく、小説版によると“ただのカラシの粉”)や催涙ガスを使っており、説明はなくても海賊たちが人を殺さないように工夫をしていることがわかります。

ドーラが、窓から抜け出して縁にいたシータに「早く捕まえるんだよ!」「あの石だ!」と、まるで彼女の命をないがしろにして、お宝だけを求めていたかのようなセリフも、“飛行石があれば落ちても死なないことがわかっていた”からそう言っていたんだ、と後から納得ができるようになっています。

ドーラはシータのことを「あたしの若い頃にそっくりだよ」と評していたため、息子に「え?ママのようになるの、あの子」「信じられるか?あの子がママみたいになるんだぞ?」とツッコまれていましたが、“やる時はやる”性格と、他人を思いやる性格において、確かにドーラとシータは似ているかもしれませんね。ちなみに、タイガーモス号の船長室には、(シータにそっくりな)若き日のドーラの勇姿が飾られていたりもします。

ちなみに、宮﨑駿監督によると、ドーラは「ダメな息子は蹴飛ばすし、見込みがあると思ったら力になってくれる“母親”」というイメージのキャラなのだそうです。確かに、陽気で子どもっぽい息子たちへの叱責や、「まったく、いつまで経っても子どもなんだから」というセリフは母親らしいですよね。

(C)1986 Studio Ghibli

また宮﨑駿は、この物語は少年と少女が旅立って、いろいろな大人に会うというものだからこそ、“大人らしい大人”を出したいということで、無類の食欲、壮大な物欲、頑強な体を持つというドーラのキャラが出来上がったとも語っていました。まさに、彼女はそのイメージどおりの魅力を持っています。

余談ですが、ラストで宮﨑駿は、ドーラからパズーに一個の宝石をポーンと渡させて「持っていきな、ジャマにはならないだろうから」と言わせるつもりだったのですが、キャラとしてしっかり完結させるために、シータを抱きしめるというシーンに変更したのだそうです。「かわいそうに、髪の毛を切られる方がよっぽどつらいさ」のセリフと合わせて、ドーラの優しさがもっとも表れているシーンですよね。

4:ムスカの“滑稽さ”は、強大な力を持つおろかさの暗喩?

(C)1986 Studio Ghibli

悪役であるムスカは慇懃無礼な態度を見せていたものの、後半から「人がゴミのようだ!」のセリフに代表されるように、凶悪な本性を見せていきます。このムスカの性格は、豪放磊落のように見えて実は優しいドーラとはまったくの正反対です。

ムスカは自身が王家の血を引いているという事実をもって、ラピュタの強大な力を使い、全世界を手中に収めようとしていました。この目的もまた、純粋にラピュタの存在を信じ、詐欺師扱いされてしまった父の名誉を晴らしたいと考えていた(かもしれない)パズーとは対照的です。

それでいて、ムスカは射撃の名手であっても、冒頭でシータに後ろからぶん殴られて気絶したり、飛行石の光にやたら怯えたり、果ては「はぁー、目がぁー!目がぁー!」とうろたえたりと、自身はとても“弱い”のです。そんな彼が滑稽に見えることも、自身の出生や肩書(王家の血)にうぬぼれて、強大な力で他者を支配することの愚かさや虚しさを示していたのではないでしょうか。

5:“描かなかった”こそ生まれた“想像”に感動があった!

(C)1986 Studio Ghibli

こうして振り返ってみると、パズー、シータ、ドーラ、ムスカという主要キャラクターの立ち位置や性格、どのような価値観を持っているか、ということがはっきりと表れています。それを長々と説明したりはせず、ワクワクする活劇の中に溶け込ませている、というのも『天空の城ラピュタ』の面白さの根源なのではないでしょうか。

さらに、本作はファンタジックな世界の“実在感”も特筆に値します。イギリスのウェールズ地方をモデルにした自然の美しさもさることながら、ついに降り立ったラピュタの壮大さ、幻想的な光景には言葉にできないほどの感動があります。そのラピュタについて、くどくどと歴史や経緯を説明せず、“そこにある”とだけ示すことも、ミステリアスな雰囲気に浸り、想像力を喚起させるという面白さにもつながっているのでしょう。

実は宮﨑駿自身、ラピュタはどのような構造になっているか?と問われると、「どんな理屈でもくっつくから特に考えてはいない」「なんで浮いているかといったって、浮いているんだから(笑)」「ものごとに何か理由をつけないと落ち着かないというのは、想像力の領域に対する自信のなさだと思います」と答えるなど、作中の設定を説明することにうんざりしているところがあるようです。確かに、絵で見ると“確かにラピュタは浮いている、そこにある”という理屈ではない実在感があるのですから、それに何かと設定を付け加えたりするのは野暮というものかもしれませんね。

(C)1986 Studio Ghibli

その一方で、宮﨑駿は設定段階で「いろいろとうじうじと考えてある」こともあったと語っています。例えば「ラピュタの木が巨大化したのは、飛行石のもとが山の上に木を生やす力を持っているため」だとか、「幼いシータが1人で生活を営めたのは、家の暖炉に隠してあった飛行石のおかげで畑がよく実ったから」だとか、「なぜラピュタは雲に隠れているか」や「ラピュタではなぜ風が逆に吹いているか」といったことまで……そういった映画本編にはない設定があったとしても、宮﨑駿は「そういう理由づけは、しょせんでっちあげなので、言ってもつまらなくなる」「絵コンテ作業に入るとそういう設定がぜんぜん入らなくなるので、一気呵成に物語を進行させるしかない」などと語っており、やはり「映画に入り切らないところは、語らなくても良い」という信条があるようです。

『天空の城ラピュタ』を初めとした宮﨑駿作品に、「いろいろなことに想像が膨らむ」「何回観ても新しい発見がある」という魅力があるのは、これが理由なのではないでしょうか。

(C)1986 Studio Ghibli

わずかなセリフや描写から、映画で描かれていない“行間”にも「こういうことじゃないか」「もしかするとこうかもしれない」と観る人それぞれの想像が広がり、それでいて一本の筋が通ったワクワクする活劇があり、圧倒的な絵の力によりファンタジックな世界の実在感がある……これが名作と言わずして、何だというのでしょうか!

さらに本作のラストは、ラピュタが(途中まで)崩壊し、そして宇宙へ飛びだっていくという、「もう戻ってこない」という喪失感もあるものでした。それは、「もう終わってしまう……」という、ワクワクする物語の終焉を見届ける時の寂寥感にもリンクしています。この“ハッピーエンドにほんの少しの哀しさもある”というのも『天空の城ラピュタ』が観客の心を掴んで離さない、何度でも観たくなる理由の1つなのではないでしょうか。

おまけ1:小説版で初めてわかることもあった!


「小説 天空の城ラピュタ」では映画で描かれた物語以前の、パズーやシータの日常の生活のことも描かれています。映画の冒頭にあたる海賊の襲撃シーンが始まるのは、なんと小説では90ページ以上を超えてから! もちろん、これは「映画では知り得ないことを小説で楽しんで欲しい」という気概があってこその描写なのですが、これらをアニメ映画で描いてしまうと説明的すぎで、かつ冗長になってしまうでしょう。

とはいえ、「小説 天空の城ラピュタ」がつまらないかと言えば、決してそんなことはありません。映画の印象的なセリフがさらに大きな意味を伴って理解できるようになっていたり、キャラクターの心情が言葉でよりハッキリとわかったり、ドーラの知られざる過去がほんのちょっぴりだけ示されていたり、映画にはないエピローグもあったりと、『天空の城ラピュタ』という作品をさらに奥深く楽しませてくれるのですから!ぜひ、読んでみることをおすすめします。

おまけ2:『天空の城ラピュタ』に似ている2つのアニメ作品はこれだ!

最後に、宮﨑駿が関わった『天空の城ラピュタ』に似ているアニメ作品を2つ紹介します。


擬人化した犬のキャラクターが印象的なテレビアニメ「名探偵ホームズ」の第5話「青い紅玉(ルビー)」では、迫力のカーチェイスと、終盤には思いもよらぬスペクタクルが待ち構えています。敵キャラがちょっと間抜けだったり、(ゲストキャラの)子どもの声優が田中真弓であることも『天空の城ラピュタ』に共通していますね。

宮﨑駿が監督や演出を、脚本はなんと『この世界の片隅に』の片渕須直が手がけています。この回は『劇場版 名探偵ホームズ』の中の一遍としても収録されているので観やすいでしょう。


「ルパン三世(テレビ第2シリーズ)」の155話(最終話)である『さらば愛しきルパンよ』は宮﨑駿が脚本と演出を担当しており、劇中では『天空の城ラピュタ』のロボット兵にそっくりなロボットが登場します。宮﨑駿はこのロボットの造形を気に入っていたものの、十分に生かしきれなかったことから、『天空の城ラピュタ』に細部を変えて再登場させたのだとか。絵柄や展開もさることながら、ヒロインの声を演じていたのが『風の谷のナウシカ』のナウシカの島本須美であったりと、宮﨑駿作品“らしさ”と、その原点を知ることのできる作品です。

さらに、同じく宮﨑駿が脚本と演出を手掛けた「ルパン三世」の一遍、145話の「死の翼アルバトロス」も『風の谷のナウシカ』らしさや、アニメ作品ならではの濃密な面白さを堪能できる作品です。「もっと宮﨑駿作品の魅力に浸りたい!」と思っている方は、ぜひご覧ください!

参考図書

ジブリの教科書2 天空の城ラピュタ (文春ジブリ文庫)
小説 天空の城ラピュタ〈前篇〉 (アニメージュ文庫)
小説 天空の城ラピュタ〈後篇〉 (アニメージュ文庫)

(文:ヒナタカ)

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