『ベロニカとの記憶』公開記念トークショーレポ!人気小説家のいしいしんじ氏が登場!
2018年1月20日(土)映画『ベロニカとの記憶』が公開となり、公開記念トークショーが開催。ゲストに「麦ふみクーツェ」「トリツカレ男」等、数多くの話題作を手掛ける人気小説家、いしいしんじ氏が登場した。
『ベロニカとの記憶』概要
アメリカ、ヨーロッパでインド映画の歴史を書き換える大ヒットとなり、日本でも2014年に異例のヒットを記録した『めぐり逢わせのお弁当』のリテーシュ・バトラ監督の第2作目。2011年英国ブッカー賞に輝いた、記憶と時間をめぐるサスペンスフルな小説「終わりの感覚」(ジュリアン・バーンズ著)を映画化した話題作。
ストーリー
60歳を過ぎ、ひとりきりで静かな引退生活を送るトニーの元に、見知らぬ弁護士から手紙が届く。あなたに日記を遺した女性がいると──。その女性とは40年前に別れた恋人ベロニカの、母親だった。思いもよらない奇妙な遺品から、長い間忘れていた青春時代の記憶、若くして自殺した親友、初恋の真実を、紐といていく──。
トークショーレポート
──映画『ベロニカとの記憶』の原作「終わりの感覚」の著者ジュリアン・バーンズの作品との出会いについてお聞かせください。
いしいしんじ氏:彼の作品の翻訳が日本で出始めたのは90年代の終わりごろ。僕が小説を書き始めた頃にちょうど出始めて、そのころから買って必ず読んでいました。非常に不思議な作品を書く作家で、1冊1冊が全く新しい、ジャンルを飛び越えたような本を作る作家だと思います。ただ、本作の原作本「終わりの感覚」を読んだ時は、それまでに書かれた作品と違って、最後まできっちりとしたストーリーが作り上げられていて、驚きました!
彼の作品の特徴は、いろんな断片(ピース)が、一見 関係のないように見えるものを並べて、時間や記憶を“糊(のり)”にして、張り付けていくというスタイルなんです。いろんなエピソードが重なり合わさり、それを遠くから見ると、ひとつの大きな物語となっているんです。この「終わりの感覚」は、これまでのような、そういう作りをしていないことに、ビックリしました!
──映画『ベロニカとの記憶』をご覧になって、いかがでしたか。
いしいしんじ氏:実は、映画を見たことで、この原作小説の意味が分かった気がしたんです。この小説も(従来の作品と同様)すごく細かなピース、記憶の断片で出来上がっています。主人公トニーが色々な記憶、例えば、生と死、娘や別れた奥さんのことを思い出していきますが、小説ではそれぞれの記憶が正しいかどうかわからない書き方をしています。あいまいなピースを積み重ねて、それがどんでん返しを起こすんです!
映画も、場面と場面、断片と断片が繋がってゆく所が、原作と相似していました。映画を見て、小説を読んだ気がしたし、小説を読んだ時の感覚は、映画を見た時のようなストーリーだったなと。ここに出てくる人物たちは、まだ今もイギリスのどこかで何かしてる感覚があり、それは小説の“読後感”と同じでした。
ジュリアン・バーンズは、小説をある種、映画的にシークエンスを積み重ねていく。初期の作品からそうですが、なぜか?それは彼が「世界をそんな風にしか生きられない」から。それが正直に出ちゃっている。例えば、「サイダーハウス・ルール」などで知られる小説家ジョン・アーヴィングは、大長編を書くのが特徴ですが、最後の1行から書き始めるんです。僕自身は、行き当たりばったりな生き方してきて、小説を書く時も1行目を書いて、2行目書いて…と行先決めずに書いています。作家は、自分が生きてきたように書くしかないんですね。
この映画は、ジュリアン・バーンズの作品と、映画の描き方が非常にうまく結びついたんだと思います。映画作りと同じ作り方をした小説だったので、映画として作りやすかったと思う。本作の監督は、本作の各エピソードを、できるだけミニマムに削っていったと言っています。それはまさに原作の描かれ方と同じ。余計な説明をしない。「ここにこれがある」と提示していくだけ。それを見て、ポカンとなる部分もあったかもしれないですが、そういうことって、生きていると往々にしてありますよね。物事って唐突に起こります。
──映画のラストは、原作小説にはなかったと聞いています。
いしいしんじ氏:もしかして、これを見て一番、ニヤニヤと喜んでたのは原作者じゃないかと思います。本作は、ラストまでのシーンをミニマムに削りに削って、最後に付け加えました。それは映画にとって必要だったんだと思います。監督もジュリアン・バーンズも、映画にはこれが必要だと思ったんじゃないでしょうか。
──改めて、原作小説、および小説が書かれた背景について、お聞かせください。
いしいしんじ氏:小説は、自分の中、「記憶」を探っていく作品として、丁寧に作られている小説です。ジュリアン・バーンズには大切な奥さんがいたんです。彼女も作家で、彼の文芸エージェントでもあり、出版社に売り込んだり、賞にノミネートさせたのも、彼女の手腕によるところが大きいと思います。
ある時、体調を崩して病院に行き、それから37日後に死んでしまったんだそうです。僕は、この作品はそれ以前から書き始めていて、最後のあたりをそういうしんどい思いの中で書き綴ったのではないかと思っていました。
実はそうではなく、奥さんが亡くなった後、しばらく書けない時期があった後に、本作は書かれたたんですね。奥さんとの「記憶」を何度も取り戻しながら書かれた作品であり、今回の主人公は「記憶」――奥さんとの記憶、読者の記憶だと思います。この小説は、彼が「こんな風にしかこの世界に生きられない」「こんな風にしか書けない」と証明している作品だと思います。
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