『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は全国民必見!今年ベスト1級の大傑作!
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
押見修造の同名人気コミックを、期待の若手俳優陣の起用により映画化した『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』。今回はこの話題作を、公開二日目午後の回で鑑賞して来た。原作ファンの自分としても、あの圧倒的な画力と感動・共感をどこまで実写で表現してくれるのか?期待と不安を胸に鑑賞に臨んだ本作。果たして、その内容は原作を越える物となっていたのか?
注:今回はかなり内容について触れていますので、鑑賞前の方はお気をつけてお読み頂ければ幸いです。
ストーリー
高校一年生の志乃(南沙良)は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代(蒔田彩珠)と友達になる。音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。文化祭へ向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。(公式サイトより)
予告編
原作コミックを最良の形で映画化した、今年ベスト1級の大傑作!
まず結論から言おう。原作コミックでもっと見たいと思っていた部分をちゃんと膨らませて、主人公たち三人の背景や心情を更に深く掘り下げながら、原作コミックの世界観と感動を生身のキャストによって見事にスクリーンに再現した、紛れもない大傑作だった!
もはや何の心配も無く、今すぐ劇場に駆けつけて大丈夫!そう断言できるこの作品を世に送り出してくれた製作チームに、まずは心からの感謝を伝えたい。
主演の二人、南沙良と蒔田彩珠は共に16歳ながら、これからの活躍が楽しみでしょうがない程の見事な演技を見せてくれる。確かに女子高生が主人公の作品だが、本作は決して若者向けの作品には終わっていない。今回非常に印象的だった名優、渡辺哲が演じる、原作には登場しない公園の清掃員役を加えた点も含めて、大人の観客も充分に涙し感動できる内容に仕上がっているのだ。
後述する様に大人の存在が非常に希薄であり、もはや親や家族が頼れる存在では無いことが描かれる本作において、セリフも無くただ二人を影から見守る渡辺哲の存在は、我々観客に明日への希望を与えてくれるものとなっている。
ポスターの印象や人気コミックの映画化という点で、もしも劇場での鑑賞を迷われているのであれば、何も心配せず今すぐ劇場へ向かうことを強くオススメしたいこの映画。
決してあなたの貴重な時間とお金は無駄にはならない、そう断言出来る数少ない映画の一本である本作、必見です!
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
実は原作を省略せず、むしろ膨らませて追加している映画版!
やはりページ数の関係もあってか、原作コミックでは主人公たち三人の高校生活がじっくりとは描かれておらず、映画を見た後で読み返すと、やはり描きこみが足りなく思えてしまうのも事実。だが、映画版では逆に主人公たち三人の関係が深まるまでを、実に丹念にじっくり描いており、一種のドキュメンタリー映画の様にさえ感じられるのだ。
実は原作では、加代ちゃんが志乃ちゃんの歌声を聞かないでバンドを組むことを決めてしまったり、初めて路上に立って歌い始めたところで菊池君に会って中断してしまうなど、今回の映画版で描きこまれた時間の経過部分が、かなり駆け足で進んでしまっている印象が強い。
その逆に、最初の路上ライブから徐々に二人の歌と演奏が上達し、やがてギャラリーが少しずつ増えて彼女たちの顔に自信が溢れて来るまで、彼女たちが夏休みの間中ずっと路上に立ち続けたことが描かれる映画版では、その後に菊池君と遭遇して志乃ちゃんが歌えなくなる描写に二人が過した夏休みの時間の重みが加わることで、更に観客に志乃ちゃんへの思い入れと共感が生まれる効果を上げている。
この様に、原作で不足していた時間の流れや人間関係が深まるまでの経過を、省略することなく描こうとする真摯な姿勢こそ、本作に観客が共感し賛辞を送る最大の理由だろう。
それが特に良く現れているのが、映画終盤に登場する志乃ちゃんと加代ちゃんが夜の街を延々歩き続けるシーンだ。
実は、映画版で印象的だったこの沈黙したまま二人が歩き続けるシーンが、原作には登場しないと言ったら驚かれるだろうか?
自分がして欲しくないことを、ちゃんとしないでくれる存在こそ本当の友人であり、無言で歩き続ける志乃ちゃんの後を一定の距離を保ったまま付いて来てくれて、しかも無理に話しかけようとしなかった加代ちゃんの気持ちが、観客には痛いほど理解出来るだけに、この長いシーンを加えたお陰で、その後の二人の別れがより観客の心に突き刺さるのだ。
更には、加代ちゃんが志乃ちゃんの家を訪ねる描写も原作には無く、菊池君と町で会ってソフトクリームを食べる場面から、いきなり文化祭当日になってしまうのだが、やはり友達なら志乃ちゃんの家を訪ねて来る方が自然だし納得出来る。これ以外にも、まだまだ二人の内面を描いた映画オリジナルの名シーンが続出する本作。その効果のほどは是非劇場で!
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
実は本作のキモは菊池君の描き方にあり!
原作コミックと映画版との大きな違いは、菊池君のキャラクターがより描きこまれていることと、菊池君が二人のバンドに加わりたかった本当の理由が、映画版では語られない点だろう。原作コミックとは違い、菊池君の志乃ちゃんに対する特別な感情が残念ながら映画では描かれないため、菊池君と志乃ちゃんとの関係性が大幅に変わってしまった感の強い、この映画版。
そのため、志乃ちゃんが何故菊池君の謝罪や本心からの告白を拒絶する様に逃げ出したかが、観客に伝わり難くなってしまったのは、非常に残念だった。
一見無神経で、志乃ちゃんの幸せを壊した犯人の様に思える菊池君。だが、ここで一言だけ説明しておきたいのが、実は彼は決して悪くないということだ。新学期初日の頃こそ、クラスの中で目立っていて友達と行動していた菊池君だが、志乃ちゃんと加代ちゃんが仲良くなるに連れて、菊池君が次第にクラスの中で孤立して行く様子も、実は本作ではちゃんと描かれている。
彼自身がセリフで言う通り、昔から空気が読めないでその場の雰囲気を壊してしまうため、中学時代はイジメに遭っていて友達がいなかった菊池君。実は彼も勇気を出して自分を変えようとしていたのであり、少なくとも吃音を理由に無視していた他のクラスメイトと違い、積極的に志乃ちゃんに関わろうとしていた彼もまた、実は志乃ちゃんと同じ様な存在だったことが、映画の終盤で明らかになる。
偶然町で会った菊池君に誘われて、気まずい状態のまま二人でソフトクリームを食べる終盤のシーン。ここで遂に志乃ちゃんは、自分の心の奥に潜んでいた闇の部分に気付かされることになる。
菊池君が告げた「二人のバンドに混ぜてもらって、やっと自分の居場所を見つけた気がした」という言葉の重さ。その気持ちは志乃ちゃんも同じであり、自分と同様に孤独と不安の中にいた彼を仲間から排除しようとした自分も、実は他のクラスメイトと一緒ではないか?そこに気付いてしまった志乃ちゃんは、自分が許せなくなってしまうのだ。
加代ちゃんや菊池君と距離を置いたり、学校を休んで引きこもりになってしまったのも、実は自分への苛立ちと怒り、そしてそんな自分を認めたくないと思う感情が原因なのだが、その気持ちを乗り越えて志乃ちゃんが言う、「私は、大島志乃だ!」というラストのセリフに繋がる展開は、正に鳥肌もの!
どんなに嫌な性格や辛い日常であろうとも、そこから目を逸らすのをやめて正面から向き合う覚悟を決めた志乃ちゃんが遂に勝ち取った、ささやかな変化と希望が描かれる映画版のラスト。確かに原作とは違うラストなのだが、後述する通り映画版が描こうとする内容に即した素晴らしいエンディングなので、お時間と余裕があれば是非両方を比較して頂ければと思う。
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
実は、本当にヒドいのは先生や親たちだった!
一見無神経に志乃ちゃんを馬鹿にしているかの様に見えた菊池君だが、前述した通り彼の行動は悪意による物ではないことが、映画の終盤で本人の口から明らかにされることになる。
実は、本作で志乃ちゃんに対して一番無神経で残酷な行為を行うのは先生や親たちであり、志乃ちゃんのクラス担任の女性教師の、あまりに他人事過ぎる対応や決めつけは、見ていて本当にゾっとするほど。その原因は、全く無自覚に自分や社会一般の基準に当てはめて、当事者の気持ちに寄り添わないその対応にある。実はこれと正反対の行動こそが、前述した夜の町を一緒に歩いてくれた加代ちゃんの行動なのだ。
もちろん先生だけでなく、この無神経さは志乃ちゃんの母親にも当てはまるものであり、親からの励ましや理解の言葉が一番必要な状況にも関わらず、自分の娘を完全に病気扱いするその態度に、志乃ちゃんは怒りと絶望であの様な行動をしてしまったのだ。ここも原作では、志乃ちゃんは怒りを露わにすることもなく、ただ諦めた様に家を出ていくため、より彼女の絶望感が増す効果を上げている。
うわべだけの励ましや応援の言葉より、ただ何も言わず傍にいてくれることが、どれだけその人の心を支えてくれるか?そんな、人間関係に一番必要な「思いやり」の意味について教えてくれる本作こそ、正に全国民必見の映画だと言えるだろう。
(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会
最後に
映画の志乃ちゃんは、いつも下を向いてうつむき加減で歩いている。
そんな彼女の顔をとらえるためか、本作のカメラはローアングルからの構図が多い。だが、加代ちゃんと出会い歌を歌うことで、志乃ちゃんは必然的に前を見て声を出さなければいけなくなる。最初は本当に町の片隅で始めた二人のライブ活動。だが、人前で歌う時の志乃ちゃんは前を見て楽しそうな笑顔で声を出している。そんな二人で過す幸せな時間の中で、文字通り前向きになりかけていた彼女の生活だったのだが・・・。ここから幸せだった彼女たち二人の世界が、ある人物の登場により再び揺れ動くことになってしまうのだ。
実はこの映画の中で、志乃ちゃんが他人を前に普通に話すシーンが二箇所出て来る。一つは音痴の加代ちゃんを笑ったことを謝るシーン。もう一つは、ラストで加代ちゃんに自分の内に秘めていた本心をさらけ出すシーンだ。実はこの二箇所に共通するのは、自分の認めたくない部分や嫌な部分をちゃんと認めて、相手と正面から向き合うシーンであることだ。
ここに注目すると、実は志乃ちゃんがなぜ人前で上手く話せないかの理由が、今の自分を認めたくない気持ちによる物であることが分かって来る。周りの皆と同じように気軽に話しかけたい自分なのに、いつも裏切るのは自分自身の体であるという苦しみ。そう、自分に対する嫌悪や怒り・恨みの感情こそが、彼女から言葉によるコミュニケーションを奪うのだ。
タイトルにもある「自分の名前が言えない」の言葉は、自分の存在に自信が持てない、あるいは今の自分の存在を受け入れられない志乃ちゃんの内面を見事に表現していると言える。
実は、志乃ちゃんの吃音の原因は本編中では一切明らかにされないのだが、彼女の家庭に父親の存在が一切無いことなど、間接的に描写される彼女の家族関係から想像することが出来る様に描かれているので、是非自分だけの考えを見つけだして頂ければと思う。
前述した通り、実は原作とは異なる結末が用意されている、この映画版。
一見、三人がバラバラになってしまった様にも見えて、志乃ちゃんだけハッピーエンド?の様に取れるかも知れないこの結末だが、実は良く見ると本当に様々な情報がこの部分に含まれていることが分かるはずだ。
原作の様に、現在の志乃ちゃんが幸福に暮らしているハッピーエンドも良いが、この映画版のエンディングも時間の経過を丹念に描くという、映画版の内容に良く合った素晴らしい結末なのは間違いない。
なお、今回劇場で販売されている本作のオフィシャルブック巻末には、原作コミックのスピンオフとして、その後の志乃ちゃんが登場する作品が収録されているので、映画を見て心を動かされた方は迷わず購入されることをオススメします!
(文:滝口アキラ)
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