『プロメア』の見事な配役から考える、理想的な声キャストのあり方とは?
(C)TRIGGER・中島かずき/XFLAG
『キルラキル』で知られるアニメ制作スタジオ、TRIGGERのオリジナル映画『プロメア』がめっぽう面白いです。「劇団☆新感線」の座付き作家、中島かずきさんらしいスケールの大きな物語に、今石洋之監督の得意な過激で奇天烈なアクションがこれでもかと炸裂しています。
そして、声の出演陣の熱演も素晴らしいです。『キルラキル』にも出演していた面々や、多くの外国語やアニメで実績ある声優たちも素晴らしい芝居を聞かせてくれますが、メインキャストを務めた3人、松山ケンイチ、早乙女太一、堺雅人の"非声優"のキャストが見事にはまっています。
アニメや外国語映画の吹替に、本職の声優以外の芸能人がキャスティングされることは、熱心な映画ファンやアニメファンの間で批判されることも多いですが、今回の3人(+重要な役どころで出演している古田新太)に関しては、彼らの芝居が映画の完成度を1段引き上げたと言っても過言ではないと思います。
キャスティングというものは、映画にとって極めて重要ですが、そもそも声の芝居には何が必要で、声のキャスティングはどうあるべきなのかを、『プロメア』や他の作品も参照しながら考えてみたいと思います。
役者にとっての声の重要性
「一声二顔三姿」という言葉があります。
これは歌舞伎の世界で、良い役者の条件を順番にしたもので、役者にとって一番大事なのは、顔でも姿でもなく声であるとする考え方です。歌舞伎のセリフには七五調などの独特のリズムがあり、「つらね」と呼ばれる長台詞などの見せ所が格好良く決まらないといけないので、顔や姿よりも声が良くなければスターになれなかったんですね。
よく考えてみれば、舞台の劇場はステージから離れた客席からでは顔もはっきり見えませんが、声だけは劇場内に轟くわけですから、多くの観客を顔だけで魅了できるわけがないんですよね。今日でも舞台俳優にとって発声は重要な要素ですし、声優として活躍する舞台俳優も多いです。
映画の場合はクローズアップという手法もあるので、声以上に顔の良さが重視されてきました。舞台では、滑舌がよくなければスターになるのは難しかったでしょうが、映画では滑舌の良くない映画スターもいますよね。
(C)TRIGGER・中島かずき/XFLAG
声優と俳優は違うのか
そもそも、日本で声優という職業は、どのように誕生したのでしょうか。
その言葉の始まりはNHKラジオドラマだと言われています。NHKのラジオ放送は1925年に始まり、初年度からラジオドラマを放送していたそうです。1941年には、ラジオドラマ向けの俳優を要請する「NHK放送劇団」を設立し、その最初の合格者を報じた新聞が「声優」という言葉を使ったのがはじまりとのこと。(声優になるには 山本健翔 ぺりかん社、P60)
戦後にTV放送が始まり、チャンネル数の増加で外国ドラマが放送されるようになると、声の演技の需要が拡大し、舞台俳優が大挙して起用されるようになりました。当時の舞台俳優にとっては、声だけの芝居はアルバイト感覚の「余技」に近かったのかもしれませんが、ギャラも良く、舞台に比べれば拘束時間も短く割の良い仕事だったようです。その後、需要の拡大で舞台俳優たちのスケジュールを管理する必要が生じたために、声優事務所が立ち上がるようになりました。今でも残る老舗の声優事務所は大体そうやって生まれたものです。
声優と俳優の違いについていろいろ言われることがありますが、その成り立ちを紐解くと、元々は同じ人達だったということになります。
人気声優の森川智之さんも「声優と俳優は違うのかとよく聞かれるが、何もかわりません。身体全体を使うか、声のみの制限をともなって表現するかだけで表現手段の問題にすぎない」と自著『声優 声の職人』で述べています(P97)。広い意味で俳優も声優も同じ役者なのです。
ただ、表現手段が異なるので必要とされる技術に違いはあるでしょう。台詞の発声の技術のことをエロキューションと言いますが、それに対するこだわりは声優の方が当然強いはずで、森川さんも「プロの声優は一音一音にこだわります。僕はよく『一ミリ、二ミリを変える』という言い方をします。それくらい細かなところの音を調整して、声を発しています。(同著、P24)」と語っています。
それぐらい細かい音を調整するためには、耳が良くないといけません。耳で台詞の強弱を聞き分ける作業は、訓練が必要です。こういう耳の良さに関しては、声の芝居を本職とする人は常に求められるので、発達しているのでしょうね。
『プロメア』に出演している堺雅人さんは、過去にもアニメで声の仕事をしたことがありますが、自身のエッセイでこのようなことを語っていました。
「小説などで「 」の会話部分をよんでいるとき、
『しゃべる声をイメージするひと』と、
『しゃべる姿をイメージするひと』の二種類のタイプがあるというのである。
僕はどちらかといえば「視覚タイプ」のようだ。
<中略>
アニメーションの場合、映像はあらかた完成していることがおおいので、
『このひとはどんな声をしているのだろう』
なんてことを考えることになる」(『文・堺雅人 文春文庫、P56』)
プロで生き残っている声優の多くは「聴覚タイプ」なのかもしれません。あらゆる役者にとって想像力の豊かさは必須ですが、とりわけ声をイメージする能力がある人が声優に向いているということになるのでしょうね。
堺さんは上記のようにおっしゃっていますが、『プロメア』での芝居を聞く限り、パワフルさと優雅さを兼ね合わせた見事な声の芝居を聞かせてくれています。堺さんも『劇団オレンジ』の旗揚げメンバーとしてキャリアをスタートしており、数々の舞台をこなしていますから、そもそも発声の重要さは熟知していますからね。
(C)TRIGGER・中島かずき/XFLAG
百の演技指導VS一のうってつけの配役
映画の演出において、キャスティングは極めて重要なものです。
日本映画黎明期の巨匠、伊丹万作は「百の演技指導も、一つのうってつけな配役にはかなわない」と記しています。(『演技指導論草案 あおぞら文庫』)
これはアニメ作品でも同じことしょう。演技力はいらないというわけではないでしょうが、それ以上に作品にとって重要なのは、イメージにあったキャスティングなのかどうか、です。例えば、ビル・マーレイは名優ですが、だからといって『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』の主役にはしないでしょう。『甲鉄城のカバネリ』の主役を務める、熱血芝居が得意な畠中祐さんに、『聲の形』の主役を入野自由さん以上に上手くできるかどうかわかりません。
映画のキャラクターは、基本的には1人として同じではありません。伊丹万作の配役の基本的な考えを極論するなら、全てのキャラクターにふさわしい配役は全て異なる、ということになるでしょう。少なくとも、選択肢が広ければ、よりふさわしい配役が可能になるということになります。
近年のアニメ作品で、技術を越える抜群の配役の代表例は、『この世界の片隅に』で主人公のすすを演じたのんさんでしょう。あの映画でののんさんの芝居は、上手いとか下手を超えて役と一体化していました。しかし、そんな彼女でも配役によっては輝かない時もあります。彼女は、TVアニメ『鬼平犯科帳』でもゲストキャラの吹替をやっていますが、すずさんの時ほどの輝きは感じません。盗賊の妻役で悲劇的な役どころですが、彼女独特の天真爛漫さが見られず、「うってつけの配役」とはいかなかったようです。
声優以外から広く人材を集めて配役したアニメ監督といえば、宮崎駿監督です。宮崎監督が声優にとらわれず広く人材を顕著に求め始めたのは『となりのトトロ』のお父さん役の糸井重里さんになるでしょうが(『風の谷のナウシカ』の松田洋治さんもいますが)、この役にも当初はプロの声優の起用を検討していたそうです。しかし、プロの声優の芝居は、どうしても「お父さんの声」を型として作ってしまう。宮崎監督のこの父親のイメージは、お父さんというより子供と対等に友達みたいに振る舞える人だったようで、「お父さんの型」の芝居はイメージに合わなかったようです。この配役は実際に見事だったと筆者は思います。それこそ、役と一体化するレベルの絶妙さで、宮崎作品の中で最も見事な配役の1つだと思います。(参照)
『もののけ姫』以降の宮崎作品は、主要キャストはほぼ"非声優"からの起用となりますが、その多くは見事な配役だと思います。『ハウルの動く城』の木村拓哉さんなども出色でした。
型の演技と心の演技
演技には大ざっぱに分類して2通りあります。型から入る演技と、心から入る演技です。歌舞伎などの日本の伝統芸能は形から入る演技です。歌舞伎などはむしろ型がしっかり出来るかどうかが重要な世界です。対して心から入る演技は、今ではメソッド演技などが代表的な例ですが、内面を作り上げることによって生まれる自然な動作を良しとするものです。実際の演技の現場では、その2つの間を揺れ動きながら演技が作られているわけですが、今の映画の世界においては後者のほうに重きを置く傾向が強いでしょう。
そして、心から入る芝居は、登場人物と演者のパーソナリティが近ければ近いほど作りやすいわけです。だから、うってつけの配役ができるかどうかが重要になるわけです。
歌舞伎や狂言に独特の面白さがあるように、2つの演技に優劣はありません。どちらにもそれぞれ魅力があるのですが、日本アニメの声優の普段の芝居にはある程度の型があることは確かでしょう。宮崎監督はその型が嫌い、というより型にはまって可能性を制限されてしまうことを嫌ったのではと思います。アニメ声優の型の魅力を筆者自身は楽しんでいますが、同時に演技の魅力はさらに広いものでもあるとも思います。いろんな芝居が楽しめるようになるといいなとは思います。
実写映画の世界にも、プロの役者には型があるからと演技の素人を積極的に起用するタイプの監督がいます。映画史の巨匠の中ではロベール・ブレッソンなどは素人にプロの役者の型を嫌って、素人に棒読みさせる芝居をさせたりしていますし、是枝裕和監督の『誰も知らない』などは、子どもたちの型のない伸び伸びした存在感が映画の最大の強みとなっています。型には型の魅力がありますが、型にはまらないのも別の魅力があるのです。
中島かずきの「型」を知る役者たち
『プロメア』のメインキャストの3人は、脚本を担当した中島かずきさんの第一希望だったそうです。3人とも一流の役者なだけあって技術も非常に高いですが、いずれも中島かずきさんの戯曲で舞台を経験しているので、中島さん独特の「型」を知っていることも大きいのでしょう。舞台は長い稽古時間でそれを習得できますが、アニメのアフレコではそうはいきませんから。
今回のキャスティングが素晴らしいのは、決して話題作りのための配役ではなく、脚本家のイメージした役者たちが、それに応える芝居をしているということに尽きると思います。本作はまさに「うってつけの配役」が実現している作品です。
キャスティングは、スケジュールや予算や宣伝戦略など、色んな要素が混じり合って決められるものなので、うってつけの配役が実現する作品は、実写でもアニメでも年に何本もあるわけではないと思います。本作は、その何本もない中の1本と言えると思います。脚本の理想が、最高のビジュアルと最高の芝居で映像化された見事な作品です。
(文:杉本穂高)
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