映画コラム

REGULAR

2020年04月25日

『Fukushima 50』と『太陽の蓋』を続けて鑑賞することで見えてくるものとは?

『Fukushima 50』と『太陽の蓋』を続けて鑑賞することで見えてくるものとは?


原発事故をもたらした
本当の理由とは?


個人的には上記以上に、『Fukushima 50』には素通りできない部分がありました。

それは後に海外から“フクシマフィフティ”と称される作業員らの決死の行動が、まるで戦時中の特攻隊を彷彿させるような描き方がなされていることです。



その証左として、主人公の福島原発1・2号機当直長・伊崎利夫(佐藤浩市)が少年時代、父親とともに福島第1原発を展望する回想シーンが出てきますが、その場所は陸軍航空部隊磐城飛行場跡です。

ここは戦時中の1945年2月から7月まで、学徒動員の学生を対象に特攻の訓練を施す特別攻撃教育隊の跡地でもあるのでした。

この時点で、作り手が“フクシマフィフティ”と特攻隊をだぶらせようとしているのは明確ではないでしょうか。

自己犠牲のヒロイックな描出はもともと日本映画が得意とするもので、また日本人観客に涙とともに受け入れられやすいものがあるのも確かです。

もとよりここでの“フクシマフィフティ”の面々の勇気を讃えることに異論などあるはずもないのですが、そんな彼らを特攻隊の悲劇と同一化するというのは、果たしていかがなものなのか……。

また『Fukushima 50』では、なぜこのようなことが起きてしまったのか? の結論として、“大自然の猛威”のみを挙げています。

確かにそれもあるでしょう。

しかし、大自然以上に見逃してはならない重大な要素が、実はあるのではないか?

残念ながら『Fukushima 50』は、その問いに答えてはくれません。

確かに本作は、ハリウッドのパニック映画超大作のように派手で仕掛けも満載、思わず涙腺を緩ませてしまう感動作品には成り得ています。

オールスター・キャストというのもやはり映画にとっては重要なもので(そういえば震災直後に作られた福島の悲劇を描いた映画の数々は、多くの芸能事務所が出演を渋ってきたことでキャスティングには苦労させられたと方々から聞かされたものですが、一転して本作の豪華さはなにゆえもたらされたものなのか?)、個人的にも好きな俳優が多数良い味を醸し出してくれているのは嬉しいところ(特に火野正平の、さりげなくもそこにいるだけで存在感十分!といった、ベテランならではの味わいには唸らされました)。

しかし、それ以上に見る側の意識を啓蒙させてくれる真のエンタテインメントに成り得る資格を大いに持ちながら、自ら放棄してしまっているかのようなのが、正直残念なのです。

『Fukushima 50』と『太陽の蓋』
お互いが補完し合うもの


と、ここまでは『Fukushima 50』をくさして『太陽の蓋』を持ち上げているかのような論説になってはいますが、逆に『太陽の蓋』には『Fukushima 50』が持つ映画としての華が決定的に欠けているという短所があります。

それはやはり肝心要の“現場”が描かれていないということに端を発しているのは明らかで、もちろんこちらは低予算作品ゆえに『Fukushima 50』みたいな超大作の構えを望むべくもないのですが、さすがに現場の状況などが台詞でしか語られないのはつらく、またそれを補うために時間軸を交錯させた構成がなされていますが、それも成功しているとは言い切れません。

要するに『太陽の蓋』は『Fukushima 50』より事実を描いてはいるものの、総体的に地味でもっさりした出来栄えなのです。
(あまり上手くいってない『新聞記者』とでもいえば、映画ファンにはわかりやすいでしょうか? 三田村邦彦の菅総理も、ちょっとカッコよすぎるかな? もっとも本人に雰囲気を似せるよう、かなり腐心しているのは見て取れます。また菅原大吉扮するエダノンこと枝野幸男はかなりそっくりさん演技をやってました。出色は福山哲郎役の神尾佑で、実にスマートで渋い好演!)



 (C)「太陽の蓋」プロジェクト/Tachibana Tamiyoshi


ただし『Fukushima 50』の後に『太陽の蓋』を見ると、前者に欠けているものを補うという意味で、かなり見やすくなるのも確かです。

出来ればこの2作、続けてご覧になってもらえば、いろいろな視点が浮かび上がっていくことでしょう。
(余談ですが、中村ゆりや阿南健治など双方に出演している俳優もいますので、役柄の違いなどを愉しむ見方もあります)

『Fukushima 50』が良くも悪くも血気盛んな“若者”的な作りであるとしたら、『太陽の蓋』はそれよりもやや“大人”的な映画であるようにも思えます。

そしてこの2作を見る私たちは、前日『月刊日本』に掲載された内田樹インタビュー『コロナ後の世界』に倣えば、“紳士”として対峙していくべきなのかもしれません。

また同時に、『希望の国』(12)『あいときぼうのまち』(13)『朝日のあたる家』(13)『物置のピアノ』(14)『ソ満国境 15歳の夏』(15)、『ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(ラプソディ)』(19)など原発事故後の福島を描いた映画をご覧になることも強くお勧めしておきます。

『Fukushima 50』『太陽の蓋』のみで福島第1原発事故は語れるものではなく、また語ってもいけない。

事故の後、福島で一体どういうことが起きたのか? そして今も起きているのか?

またそれは新型コロナ・ウイルスが世界中にもたらしている数々の悲劇ともどこか呼応しているような気もしてなりません。

単に批判するだけでなく、単に擁護するだけでなく、冷静に物事を見極めていきたい。

それは自分自身への戒めも含めた、『Fukushima 50』や『太陽の蓋』をはじめとする福島を描いた映画から教えられた貴重な教訓にしていきたいと思っています。

(文:増當竜也)

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