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明智光秀は生きていた?「天海説」は「麒麟がくる」では使われるのか?



いよいよ次週クライマックスを迎える、大河ドラマ「麒麟がくる」。

主人公の明智光秀は史料で明かされていない謎が多く、織田信長の配下に入る前のことはほとんど判明しておりません。

そして、本能寺の変の直後に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に破れてしまったことから、彼の歴史は「敗者の歴史」として、歪められたか捨てられたかしてしまっているものが多いだろう、という状況にもなっています。

秀吉との山崎の合戦で破れたあとの光秀の定説は、敗走時に農民による落ち武者狩りで殺害された・重傷を負い自刃した、というもの。しかし、農民による殺害だったからか、光秀が死んだという証拠(首)が他の武将の手に渡ることがありませんでした。

そのため光秀には、生存説が残されています。なんと徳川家に仕えた僧侶・天海だと言われているのです。天海といえば徳川家康の参謀で、大阪冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも関わったと言われる高僧。江戸時代初期のキーマンです。

歴史家にはほとんど棄却されている説ですが、ファンにとっては夢のある光秀=天海説。どのようなものかご紹介しましょう。

天海僧正とは


天海は天台宗の大僧正で南光坊という尊号を持ちます。歴史系のゲームなどでは「南光坊天海」という名称で登場していることも少なくありません。

簡単に紹介すると、

・ 生年は1510年、1530年、1536年、1542年、1554年など様々な説がある
・ 明らかな足跡は1588年(天正16年。本能寺の変の6年後)に武蔵国・無量寿寺北院(埼玉県川越市。現在の喜多院)で天海と名乗ったところから
・ 江戸時代となってからは徳川家康・秀忠・家光に仕えている
・ 没年は1643年(嘉永20年。徳川第3代将軍・家光の治世)

という僧侶です。明智光秀と同じく前半生が定かではありません。この、定かではない前半生こそが、光秀=天海説が生まれうる土台であったと言えるでしょう。

生年と没年から年齢を推測すると、短くてもおよそ90歳、長いと130歳以上まで生きています。

光秀=天海説を生み出した理由


天海の紹介のところで、光秀と天海の前半生がともに謎であるところが、二人が同一人物である説の土台であると書きました。

しかし、もちろんそれだけでは「説」として残るはずもありません。もしかしたら本当に同一人物なのでは?と信じてみたくなる奇妙な一致や偶然が、いくつか見て取れるのです。

天海の墓所の場所


天海の墓所の一つは日光にありますが、天海が家光の時代、そこに「明智平」という区域を名付けたという伝承があります。現代の明智平にある展望台からは、中禅寺湖や華厳の滝といった日光の名所を一望できます。

明智といえば……。そう、光秀ですね。日光を訪れた際に明智平の命名の理由を尋ねれば、この説を聞けることでしょう。

ただし、この説も明確な根拠が無いらしいです。

二代将軍・三代将軍の名前


江戸幕府の二代将軍は「『秀』忠」
三代将軍は「家『光』」

です。

なんと、二人の将軍の名前を合わせると「光秀」の二文字が入っています!

……とはいえ、なぜ将軍家がそこまで光秀の文字を入れようとするのかも理由がありませんし、そもそも三代将軍の名前が決まるまでに光秀が亡くなってしまう可能性も低くなかったでしょう。リアリティに欠けるなあと思えます。

天海の廟所の場所


複数ある天海の墓所の一つは、恵日院という寺院内にある慈眼堂です。さて、この恵日院がどこにあるかというと、なんと、滋賀県大津市坂本なのです。

坂本といえば、坂本城ですよね。大河ドラマでも琵琶湖畔に建つ坂本城はとても印象的でした。

なぜ天海がこの地に眠っているのか、と考えると、光秀=天海説が浮かんでくるというものです。

関ケ原の戦いの絵図


関ヶ原町歴史民俗資料館に保存されている関ヶ原合戦図屏風には、家康の本陣近くに「南光坊」と書かれた武者の姿があるそうです。

この屏風は模写されたものと言われているのですが、その元の図には「南光坊」の文字がありません。

後から追加されたとなると、何かしらの創作性を感じますね。

強い証拠に欠けるが夢がある生存説



明智光秀の場合、天海となったという説だけでなく、名前を変えて生き延びていたというものもあります。そこには、荒深小五郎と名前を変えて落ち延びたとあります。

光秀のほかの有名な武将の生存説には、このようなものがあります。

源義経

源義経は、1189年に行われた衣川(岩手県)の戦いで、藤原泰衡軍に敗北して自害した、とされています。が、蝦夷(北海道)に逃げ延びたあと、モンゴルの英雄・チンギス・ハーンとして活動した、という説があります。

織田信長生存説

本能寺の変の際に織田信長の遺体が見つかっていないことから、生存説があるようです。落ち延びた信長は加賀方面に逃げ、前田利家に匿われた説があります。

石田三成生存説

関ヶ原の戦いのあと捕らえられ、六条河原で斬首されたとされている石田三成も、秋田に逃れたという説があります。秋田にはお墓があるというお話もあるのだとか。

島左近生存説

石田三成の重臣であった島左近にも生存説が。関ケ原の戦いで戦死したとされていますが、京都のお寺には1632年に亡くなった記載がある、百姓に変装して暮らした、などの説があります。

真田幸村・豊臣秀頼生存説

豊臣家が滅亡した大阪夏の陣で、徳川家康の軍に少数で果敢な突撃を繰り返して戦死したと言われる真田幸村。死亡したのは影武者で、豊臣秀頼を連れて薩摩に逃げ、島津家に匿われた言い伝えがあります。秀頼にはさらに複数の地での生存説も。


が、戦国武将の生存説は、だいたいが強い証拠に欠けるもの。その後に活躍した記録がないのも、たくましい戦国武将としては不自然です。

歴史のIFとして光秀=天海説を楽しみたい


光秀=天海説は、明智光秀が徳川家康に親しい存在だった、と考えてみると、麒麟がくるのストーリーに親和性の高い仮説、とも言えそうですね。

多くの歴史家から可能性の低さを指摘されてはいるものの、ドラマや時代小説には本説を採用した作品も少なくありません。

光秀と家康の関係を頭に入れつつ、ドラマチックな歴史のIFとして楽しむ材料としてみるのはいかがでしょうか?

麒麟がくる ラストは光秀=天海説だったのでは?最終回の放送を終えての追記


2021年2月7日に放送された最終回。【※ネタバレあり】「麒麟がくる」最終回 解説&考察|明智光秀が主人公ゆえに辿り着いた賛否割れる神秘的なラストにでも述べました通り、史実では命を落としたはずの山崎の合戦の後も、光秀は生き残ったのではないかという演出となっています。

この最終回や周辺の情報を拾ってみると、本作では光秀=天海説を採用しているのではないかと思われる要素がいくつも見つかります。

天海が所有する鎧兜とドラマの奇妙な共通点


天海が所有していた鎧・兜が現存しているのですが、その名前・形には光秀=天海説を後押ししているように思える共通点があります。

兜の名前に「麒麟」の文字が入っている


天海所有の兜の名前は「麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)」。その名の通り、麒麟の前立(およそ額のあたりにつける飾り)が取り付けられているのです。

本能寺での信長弑逆(しいぎゃく)を果たした光秀の元へ向かった伊呂波太夫。ここで光秀は伊呂波太夫に

「駒どのに伝えてもらえるか。必ず、麒麟がくる世にしてみせよう」
「麒麟は、この明智十兵衛光秀が必ず呼んでみせる」

と語るのです。確かにタイトルに使われているキーワードでもありますし、気にはなっていましたが、最後のセリフで2度も使うとなると何か重要な示唆があるとしか思えません。

天海所有の兜と紐づくのもむべなるかな、と言えるでしょう。

兜と鎧の立物と居城の床の間に見る造形


上記の兜と、同じく天海が所有する鎧「銀小札萌黄糸威二枚胴具足(ぎんこざねもえぎいとおどしにまいどうぐそく)」には、似たような二つの立物がついています。それは三日月にも似た角の形です。

光秀が

「我が敵は、本能寺にある。その名は、織田信長と申す」

と宣言した前後のシーン。床の間に描かれている絵は、それと似た細い銀の三日月のようなものなのです。

正直、形が酷似しているというほどではありません。しかし、桔梗の家紋などを飾っておいてもよいデザインが線の細い三日月であるのは、そのほかの要素と合わせて考えると重要な示唆になると思ってしまいます。

菊丸との最後のセリフにある違和感


光秀を心配した徳川家康が、腹心である菊丸を光秀のもとに送り、警護をさせようとしました。
そこで菊丸と会話した際の光秀の言葉に違和感を覚えます。

「この戦に勝ったあと、何としても家康殿のお力添えをいただき、ともに天下を治めたい。200年も300年も穏やかな世が続く政(まつりごと)を行ってみたいのだ」

ともに天下を治めたい、という言葉には、征夷大将軍となった家康が天海とともに江戸時代を作り、豊臣家を滅ぼした史実につながるように思います。

そして、200年も300年も穏やかな世が、という言葉も、セリフとして不自然な気がしませんか?人間が切りの良い数字を使うのであれば100年でしょう。

それまでの歴史上の時代区分を考えても、

平安時代が792年から1185年(所説あります)までの390年
鎌倉時代がおよそ1185年(同上)から1333年までの148年
室町幕府が1336年から1573年までの237年(ただし1467年に起こった応仁の乱以降は戦国時代に入り、光秀生きた時代を含めた後半100年が「穏やかな世」であるとは言えません)

という実態から、光秀が200年から300年の治世と述べる理由が見当たりません。
ところが、です。

江戸時代は1603年から1868年の265年。光秀の「200年も300年も穏やかな世」という言葉にどんぴしゃりではないでしょうか。

ドラマ最終盤の光秀生存シーンに、天海説との破綻がない


ラスト直前で、本能寺の変の3年後(1585年=天正13年)のシーンが描かれます。ここでは総髪で長刀を持った光秀らしき人物が登場します。

上に記しました通り、天海がこの世の記録に出てくるのは1588年です。総髪の光秀が1585年にいることは、光秀=天海説を破綻させるものではありません。

このこと自体が説を裏付けるものではありませんが、破綻させるものではないということは裏付けのプラス材料になるでしょう。

ドラマ終了後の長谷川博己さん挨拶動画に、天海説をにおわせるコメントがある


麒麟がくるのNHKのスペシャルサイトに、俳優陣からのラストメッセージ集があります。ここの、長谷川さんのコメントをご覧ください。

「僕は、最後は、明智光秀は生き延びたんだと信じたいです」
「もしもこの先が気になるようでしたら、是非、皆さまからのコメントをいただきましてなにか番外編で、またお会いできたらうれしいなと思います。このあと、どうやって光秀は江戸幕府をつくったのか?それができたら、僕も幸せです」

このセリフを語っているときの長谷川さん、俳優が感無量で、という表情ではないんですよ。いたずらっ子がニヤッと笑うような、やんちゃな表情をしているんです。

ドラマ本編で光秀が生きていたとしても1585年までしか描かれていないのに、江戸時代の政権に関与していることをにおわせる発言……。これはもう、天海説としか思えないではないですか。

「どうする家康」出演を予想する声も


これだけ光秀=天海説をにおわせる要素が出てきたことで、最終回を見たファンの反応も大きかったようです。

SNSでは光秀=天海説を喜ぶ声や、2023年の大河ドラマ「どうする家康」で長谷川さんが天海役で登場するのではないかと予想する声まで出てきており、キャスト発表の答え合わせが今から楽しみになっているようですね。

筆者も長谷川さんが天海を演じる線は濃厚ではないかと考えており、早くも再来年の大河ドラマが楽しみになってきました。こんどは天海のセリフや衣装の中に、光秀をにおわせる何かがあったりして……。わくわくが止まりません。

光秀=天海説は「麒麟がくる」で採用されるかどうかが気になっていましたが、心はすでに「どうする家康」で採用されるかどうかが気になります。キャスト発表まで、天海の寿命のように首を長くして待っていたいですね!

(文:奥野大児)
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