映画コラム
映画『コーダ あいのうた』の「伝えること」の尊さと、ラストの意味を解説
映画『コーダ あいのうた』の「伝えること」の尊さと、ラストの意味を解説
『コーダ あいのうた』は第94回アカデミー賞で作品賞、脚色賞、助演男優賞の3部門でノミネートされ、そのすべてで受賞を果たす快挙を成し遂げた。
同作はフランス映画『エール!』のリメイクであり、大筋の物語や一部のやり取り、家族で観ると良くも悪くも気まずくなってしまうかもしれない下ネタの多さ(地上波ではカットされるかも)は踏襲されている。だが、主人公一家の職業が酪農家から漁業従事者になっていたり、主人公の弟が兄になっていたりと、種々の変更点もある。
どちらかといえばライトなコメディだった『エール!』に比べると、『コーダ』では主人公の「切実さ」が増している印象がある。それもあって、『コーダ』は「ヤングケアラー」の問題へ真摯に向き合っていると共に、それ以外の多くの人にも開かれた「伝える」ことへの学びもある、現代で観られる意義がとても大きい作品になったと思うのだ。その理由を、初めの少しだけネタバレなしで、後半はネタバレ全開で解説していこう。
▶『コーダ あいのうた』をAmazonプライムビデオで観る
▶『エール!』をAmazonプライムビデオで観る
ヤングケアラーの悩みを「自分のことのように思える」理由
タイトルのコーダ(CODA)とは「Children of Deaf Adults」の略で、「耳の聴こえない両親に育てられた子ども」という意味。主人公のルビーももちろんコーダだ。彼女は幼い頃から家族の手話通訳をしており、家業である漁業も毎日手伝っている。ある日、ルビーは合唱クラブの顧問の先生から才能を見出され、名門音楽大学の受験を勧められるのだが、結局はトラブル続きの家族を優先せざるを得なくなり、レッスンに遅刻し続けてしまう。厚生労働省のサイトによると、ヤングケアラーとは「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものこと」を指しており、「責任や負担の重さにより、学業や友人関係などに影響が出てしまうことがある」と問題点が指摘されている。その点でルビーはコーダであると同時にまさにヤングケアラー。さらにルビーは責任感が人一倍強く、漁業の今後に関わる問題にも強く踏み込むからこそ、さらに苦しんでしまうのだ。
▶︎『コーダ あいのうた』画像を全て見る
この映画『コーダ』の最大の価値は、現実にもいるヤングケアラーが遭遇するその悩みに、当事者の立場で共感できることにある。加えて、「10代後半からの進路」そのものは多くの若者が遭遇する迷いであるし、そこに経済的な理由が絡んでしまうこともよくあることだろう。そのため、ヤングケアラーに限らない「若者のこれからの物語」として読み取ることもできるのだ。
また、主人公ルビーを演じたエミリア・ジョーンズは9か月をかけてアメリカ手話、歌のレッスン、トロール漁船の操縦方法まで入念に学んでいた。そのルビー以外の家族に、実際に耳が聴こえない俳優をキャスティングした意義も大きい。家族それぞれが「本当にこうして生きてきたんだ」と思えるほどの説得力があるからこそ、この『コーダ』は「自分のことのように思える」映画になったのだろう。
※これより『コーダ あいのうた』の結末を含むネタバレに触れています。観賞後にお読みください
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
(C)2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS