諏訪敦彦 監督が語る映画教育┃「僕は常々学生たちに“自由であれ"と伝えています」
今回は「映像と教育」をテーマに東京藝術大学大学院映像研究科の「監督領域」で教鞭をとられている、諏訪敦彦監督にインタビュー。映画『M/OTHER』でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。完成された脚本を用いない手法で、国内外で活躍する諏訪監督がどのように映像教育に取り組んでいるのか、お話をうかがいました。
映画制作とは本来ルールのない自由なもの
──諏訪監督は2002年、母校である東京造形大学の教授に就任。2008年から2013年まで学長をつとめ、現在東京藝術大学大学院の映像研究科で指導。ほかにも小中学生向けの「こども映画教室」で講師をつとめるなど、積極的に映像教育に携わられています。藝大では、どのような授業をされているのでしょうか?
諏訪:座学形式のかしこまった授業はほとんどなく、大学院なのでほとんどの学生が主体的に自分の研究をつきつめていて、私はその「サポート」のような役回りです。
映像研究科が立ち上がったとき、モデルとなったのがフランスの「Fèmis(フェミス、正式名称は国立高等映像音響芸術学校)」という国立の映画学校でした。フェミスは作家主義的な映画を志向していますが、現役の映画人が講師を務め、脚本、演出、編集、撮影、録音、美術、制作という7専攻から成り立っています。藝大も同じく専門性をわけて指導を行っていて、彼らの映画教育は国際的なスタンダードに近いと思います。実地制作も多く、専攻をまたいでひとつのチームをつくり、一本の映画を完成させるプログラムが中心です。
──大学院なので、2年間で勉強もしながら映画をつくるということですよね。
諏訪:なので、学生たちはすごく忙しいですね。藝大の場合は、撮影の期間と予算を学生たちにあたえて、期日までに映画を仕上げてもらいます。私が、映画のテーマや内容について事細かに指導することはほとんどなく、学生たちが制作に行き詰まったとき相談に乗る、というのが実際のところです。
あとは、彼らの視野を広げるという意味でも、国際的な人材育成/国際交流というのは非常に意識しています。海外の映画学校から先生や学生をよんでワークショップを行ったり、世界的に活躍する監督に来てもらったり。いまはフェミスの学生たちが「国際交流」という名目で来日していて、日本に滞在する2週間でフィクションでもドキュメンタリーでも、どんなかたちでもいいので映像作品を1本つくるという課題を与えています。最後の日に発表があるので、藝大の学生たちも手伝って、即興的に撮ってもらっているんです。
──他国の映画人と交流できるのは楽しそうですが、即興的というのは大変そうですね。
諏訪:フェミスに限らず映画学校のプログラムというのは職業人を育成するために入念に練られていて、日々ギチギチに決まったプログラムに沿って、授業を受けるわけです。しかし、この2週間はオールフリー。なにも決まっていないなかで、直感的にものを作ることをやってもらっています。わりと評判が良くて、フェミスの学生は「これまでの授業のなかで一番おもしろかった」「自分のものづくりに対する根源的な楽しさや初期衝動を思い出しました」と言ってくれました。
──台詞が書かれた脚本を用いず即興的に撮る演出方法は、まさに諏訪監督が得意とする技法ですよね。
諏訪:自分のやり方を押し付けたいわけではないんです。脚本を決めて、スケジュールを組み立てて、といういつものやり方ではなく、目の前の世界と対峙して、自分の直感を信じてクリエーションをしていく。表現の本質はシンプルなもので、それを忘れてほしくないのです。それは自分自身が制作においても、映像教育に携わる上でも大切にしている部分です。
映画制作は非常に「創造的」であると同時に「専門職的」なのですが、後者の「専門性」を伸ばすための教育ばかりで、技術指導に重きが置かれてしまっています。一方で、映画を媒介してなにかを考えたり映画表現に思い悩んだり、映画と出会うことで思考をめぐらせる教育という方向性もあるはず。私はそれこそ人間的に必要な学びだと思うので、映画教育に関わっているのかもしれません。
──どちらを目的にするのかで、映像教育の中身が随分と変わってきそうですね。現場ですぐに「使える人」を排出するために、実務的な学びが重視されている傾向はあるのかなと想像します。
諏訪:それも必要なんですが、技術もシステムも、常に変化するものですよね。システムのなかで通用する人間になるために習得した技術というのは、システムが変化してしまえば役に立たないものになります。露出計の使い方やカメラの操作を教えることはできますが、それだけでは映画を教えたことにはならないはず。例えば映画学校ではよくカット割のルールなどを教えますが、ルールとか文法と呼ばれているものは単なる「習慣」なのであって、映画制作とは本来ルールなどないもっと自由なものだと思うからです。
習慣や作法から解放されて、自分の道を歩んでゆくことこそ創造にとって大事なこと。僕は常々学生たちに「自由であれ」と伝えています。これは学生の権利ではありません、使命なんです。
──自由であれ、とはつまりどういうことなのでしょうか。
諏訪:自由とは、好き勝手やることではないです。むしろ、そう簡単に自由にはなれない。なぜなら私たちは、なにか新しいことを考えているつもりでも、結局どこかで見聞きしたものを礎に考えてしまったり、誰かの考えに囚われていたりして、縛られているんです。なので、自分を自由なところに置くために、まず自分を疑わなくてはなりません。「なぜだろう?」と問うこと。そこから自由の探究が始まります。この問いこそが「知」の働きなのであって、大学において行われなくてはならない探究なのだと思います。そのステップを踏むこと。作法や技術は現場でも学べますが、そこでは根本的な「問い」を立てることは難しいのです。知的な営みによって自分を知り、そこで得た映画的思考が「自由であれ」に導いてくれるように思います。
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