『アリスとテレスのまぼろし工場』の「6つ」の考察 いたくてやさしい、岡田麿里監督からのメッセージとは
1:いつの時代の物語なのか?
劇中で工場の爆発事故が起きて、時が止まり町が「まぼろし」となったのは、劇中の漫画雑誌の背表紙にあったように1991年でほぼ間違いない。中学校の女子たちがブルマを履いていたのも、ブルマが一気に排除されハーフパンツやジャージに移行していったのは1992年以降なので矛盾がない。正宗の叔父の時宗も、1991年式のバイク「ZZR1100C1」に乗っていた。また、1976年4月23日生まれの岡田麿里監督も、1991年の4月まで14歳だった。劇中が冬の季節だったことも踏まえれば考えれば、おそらくは1991年1月~2月。これから春が来る、進級を迎えるタイミングだったのだろう。
重要なのは、1991年はバブル景気が崩壊した年ということだ。映画のラストで工場が廃墟になっていたことも合わせて、まぼろしとなった町そのものが、日本中にあった「バブル景気の崩壊後に周りから置いてかれてしまった」「衰退していった土地」を暗喩ようにも思える。ここから『千と千尋の神隠し』の冒頭部や、『すずめの戸締まり』の廃墟に残された「人々の記憶」を思い出す方もいるだろう。
そして、まぼろしとなった町で14歳の姿のままの正宗と睦実は、現実の世界では結婚していて、2人の娘である五実は同じ年頃までに成長していた。ふたりが結婚したのが20代中盤、それから五実が生まれてから14年が経ったと考えれば、工場の爆発事故から数えて25年前後の時が経っている、現実の正宗と睦実は40歳前後になっていると考えていいだろう。
小説版では「『成人(18歳)に該当する』とされた子ども達は話し合いの場を設けさせられた」「小学生くらいに見える子どもも車を運転している」「何年が経過したのか……この考えを意識的に遠ざけるようにしていた。そうでないと、気持ちが持たない」といった記述もある(五実が町に来てからは10年が経っていることは明記されている)。
そして、ラストシーンでは、五実(沙希)は成人になったばかりで、春から美大に通っていると小説版に書かれている(10年間にわたり失踪していた彼女の周りの反応なども記されている)。つまりは、おおむねで以下のような時代の流れになっているのだ。
・1991年 工場の爆発事故により町が「まぼろし」になる(現実ではバブル崩壊が起きる)
・2001〜05年ごろ? 現実の正宗と睦実が結婚、五実が生まれる
・2005〜09年ごろ? 4歳の五実がまぼろしの町へとやってくる
・2015〜19年ごろ? 五実が14歳にまで成長。物語のメインの年代(まぼろしの町は1991年のまま)
・2019〜23年ごろ? ラストで五実(沙希)が18歳になり、現実の廃墟になった町に訪れる
ラストシーンの年代を2023年と仮定して、バブル崩壊だけでなくコロナ禍も経た物語という解釈をしてもいいだろう。バブル景気後の衰退だけでなく、新型コロナウイルスのパンデミックにより世界中の人が味わった閉塞感も、劇中の物語には確実に反映されているのだから。実際に、岡田麿里監督は「この数年、私たちはそれ(皆が同じような閉塞感)を経験したと思う」などとパンフレット掲載のインタビューで言及している。
また、あのまぼろしの町での閉塞的な暮らしを、20年以上も続けているということがあり得ないと感じる方も多いだろう。外界から閉ざされた場所で(特に現実の人間である五実への)食料をどう維持しているのかという疑問もある。とはいえ、作品に重要なのは理屈そのものよりも、閉塞的な状況にあまりに「慣れてしまい」、思春期の鬱屈した気持ちを抱えたままで「大人になれない」というメタファーだ。何より、「まぼろし」という曖昧な存在になっていたからこそ、町の住人たちは(劇中で言及されているようになんとなく理解しながらも)ずるずるとループするだけの長い時を過ごしてしまったのかもしれない。
2:タイトルの意味は?
「アリスとテレスのまぼろし工場」というタイトルを聞いて不可解に思った方は多いだろう。アリスとテレスという名前のキャラクターは劇中に登場していないからだ。実は、監督・脚本の岡田麿里は、小学生の時に教わった哲学者のアリストテレスが、クラスのみんなが「アリスとテレス」と双子の名前のように言っていたのが面白くて、10年ほど前に書いた小説のタイトルに「狼少女のアリスとテレス」とつけていたそう。スタッフからの提案で、その小説と「根っこ」は変わらないという今回の映画にも「アリスとテレス」を残したのだという。「まぼろし工場」という舞台と合体させたのは、「生きることや存在意義について、哲学的にというか考えてみたい作品だった」という意向もあったらしい。
また、哲学者のアリストテレスは「希望とは、目覚めている者が見る夢だ」という言葉を残しており、小説版では正宗の父の昭宗がその言葉と共にノートに書いた「希望を見る資格のある少女(五実)を犠牲にしてなりたつこの世界に、なんの意味があるのだろうか?」という問いかけもしている。
さらに重要なのはアリストテレスが提唱した哲学用語「エネルゲイア」だ。劇中の漫画には「哲学奥義エネルゲイア」という必殺技が登場していたようだし、小説版では大学で哲学をかじっていたという昭宗が「エネルゲイアってさ、人間固有の行為なんだよね。始まりと終わりの乖離が無い、行為と目的が一致した、ただ『今』を生きるっていう」などと語る場面がある。
この言葉通り、エネルゲイアとは、始まりと終わりを見据えての目的そのものの行動ではなく、今というこの瞬間を味わう状況のことを指している。例えば旅行において最短ルートで目的地に辿り着くこと(これを「キネーシス」と呼ぶ)ではなく、寄り道をしてご飯やスイーツを食べたりしたりすることがエネルゲイア。登山において頂上にいち早く辿り着くことではなく、土を踏みしめる感触や道中の景色を楽しんだりすることもエネルゲイアだ。
これまではまぼろしの町で目的もなくただ日々を過ごすしかなかった正宗が、五実を現実に送り出すことを目的とした行動を成し遂げ(これはキネーシス)、新しい生き方もといエネルゲイアを築くまでの物語だと言ってもいい。
何しろ正宗と睦実は、五実を送り出す行動を成し遂げ「生きている」という実感を得ていた。実際にはまぼろしのまま、これから消えてしまうかもしれない正宗と睦実であっても、これからはエネルゲイア的な発想である「今を生きている」実感を持って過ごせるに違いない。まるで旧約聖書のアダムとイブのように、いやエネルゲイアを提唱した哲学者の名前から派生したアリスとテレスのように、正宗と睦実はこれから「新しい生き方」ができるのだろう。
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
(C)新見伏製鐵保存会