インタビュー

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2023年10月02日

巨匠・ジャンフランコ・ロージが映像作家・太田光海に明かす映画術┃「今こそ映画は詩学に立ち返り、現実を別物に変換しなければならない」

巨匠・ジャンフランコ・ロージが映像作家・太田光海に明かす映画術┃「今こそ映画は詩学に立ち返り、現実を別物に変換しなければならない」


「新しい作品を撮るとき、私はいつも過去作を忘れ、ゼロから出発する」


太田:もう一つ、この作品の特徴を決定づけているシーンは、やはり宇宙からのショットだと思います。あれのおかげで、私たちの視点は惑星的なものになりますから。

ロージ:そうだ。さらに言うと、映画の冒頭では地球がひっくり返って見える。そこで教皇が「夢を持て、夢を持つんだ」と語る。

『旅するローマ教皇』の冒頭

太田:そうですね。この宇宙的な視点というのは、『旅するローマ教皇』に固有のアイデアだったのか、それともあなた自身の意識がそういう方向性に向かっている結果なのか、どっちなのでしょう? 私が観たあなたの他の作品では、もちろんあなたは境界を越えようという意志を示していますが、やはりまだ「ローカル」であり「地上的」なのです。でも『旅するローマ教皇』では、視点はより「惑星的」で、地球のことをその思考から捉えているように見える。それはあなた自身の思考の中に芽生えている感覚なのか、それとも単にこの映画がそういう性質を持つだけなのか、どっちでしょう?

ロージ:私も年を取って死に近づいている。だから今までと違う視点に立とうとしてるのさ。この映画で教皇と関係を築くことで、天国へのチケットを買おうと思ってね(笑)。まあそれは冗談として、この映画では私自身も観客の一人だ。なぜなら、かなり変化を加えているとはいえ、使っているほとんどの映像は私が撮影したものではないから。フレーミングを変えたり、粒子効果を加えたり、テレビジョンのように見えるエフェクトを加えたり、色々行っている。ペースの変化を編集で作り出したり、沈黙のシーンと音が豊かなシーンをそれぞれどこに配置するか考えたり......。とにかく、映画的な構築物がたくさん盛り込まれているんだ。

私の挑戦は、元々テレビ用だった映像を一つの「映画=シネマ」、つまり思考の構造として組み立て直すということだった。しかし、私にとってドキュメンタリーとフィクションの違いはない。なぜなら、私にとって唯一存在する言葉は「シネマ」だからだ。私はいつも、「シネマ」という言語を使う。何かが何かに巻き込まれ、関係している限り、ドキュメンタリーなのかフィクションなのかはどうでもいい。しかし、もちろん『旅するローマ教皇』は私自身の仕事の産物だ。それは私のこの世界に対する「視点」であり、「関係性」であり、「距離」であり、「観察」を通しての作品なんだ。

『旅するローマ教皇』のシーンより

ロージ:『旅するローマ教皇』は私の作品の中で最もリモートなものであるが、ある意味では、抽象的レベルでは私の過去作を凝縮させたものでもある。新しい作品を撮るとき、私はいつも過去作を忘れ、ゼロから出発する。なぜならあらゆる現実、あらゆる映画には、異なる必要性があるから。私は映画監督が毎回同じような作品を作り始めるのが嫌いでね。私にとっては、あらゆる映画はチャレンジでなければならないし、ストーリーを伝える上での新たな言語を生み出さないといけない。それがとても重要だ。

太田:つまり、「自分自身の映画言語」を編み出すだけでなく、毎回新しい映画言語を生み出さないといけないということですね。

ロージ:そうだ、現実を何か他のものに変換させないといけない。「現実」とは、それ自体では退屈なものだ。だから何か他のものに変化させる。「教皇」に対するイメージは、誰もが何かしら持っている。だけどこの作品では、教皇のことをよく知っている人間、9年間毎日彼と共に過ごし、全ての旅に同行しているような人たちが観たとしても、別の教皇を目撃することになる。つまり、異なる肖像を描くということなのさ。とはいえ、作品の中の教皇は、教皇の実像に最も近いと思うがね。私は教皇の軌跡を追うことで、政治的な映画を作りたかった。

太田:ほう、政治的な映画を作りたかった。

ロージ:そう、望んでね。私は神学的あるいはイデオロギー的な映画は作りたくなかった。教会批判をしたり、「これは良くない」と主張したり。しようと思えばあらゆるレベルで批判することができるが、私は教会を攻撃することに興味がなかった。私は何よりも、教皇を一人の男として、個人として、尊敬しているんだ。だからこの映画を通して、私は彼という個人の本質、彼が何者であるかを描きたかった。彼は公正で、高潔な意志を持つ人物なんだ。彼は革命家であり、物事を変えようとしている。いつも成功するかというと、そう上手くいかないけれどね。

太田:例えばチリのように?(*6)

*6......2018年、チリの聖職者たちが性的虐待に関与したことが発覚。チリに訪れた際に教皇はこの件を謝罪した。

ロージ:チリもそうだし、何より今戦争が起きている。彼は和平を結ばせようとするが、できない。なぜなら彼よりも物事のスケールが大きいから。中国やアメリカ合衆国もこの戦争には絡んでいる。もはや垂直的に国家を捉えても意味がないのさ。だから教皇の信仰や精神性だけでは、何か大きなことを動かせるわけではない。戦争は、全てを上から叩き潰すマシーンのようなものだから。しかし、それでも思うのは、教皇は唯一全ての人間に語りかけることができる存在だということ。信者、信者でないに関わらず。君は信者かい?

太田:キリスト教の?

ロージ:なんでもいい。何か君固有の信仰があるかい?

太田:固有の、と言われるとないかもしれないです。

ロージ:オーケー、つまり世俗的人間ということかな。私もだ。だけど、教皇の言葉には私は耳を傾ける。彼の言葉を聞くのが好きなんだ。そして彼は、全世界に向けて語りかけることができる唯一のリーダーだ。この時代、世界は揺れていて、私たちがどこに向かっているのかわからない。いわば宙吊りの時代で、未来が何をもたらすのか、誰もわからない。今私たちは、核戦争の可能性についてまで話している。だからこそ、教皇も広島でのイベントに参加した。

太田:しかし、そのシーンでは言葉が一切ありませんでした。

ロージ:なぜなら、沈黙の方がより強力だからさ。

『旅するローマ教皇』より広島を訪れる教皇

太田:なるほど。いくつかのシーンで、完全な沈黙のショットを使っているのは興味深いです。

ロージ:ああ、なぜなら沈黙は会話よりも強力だからね。私たちは話しすぎるし、この世界には情報が多すぎる。沈黙の方がよりパワフルなんだよ。

太田:どうやってそのようなシーンを選ぶのですか?

ロージ:音符の間には休止があるだろう? 休止なしに、音符は意味をなさない。沈黙とともに物語を語ること、沈黙を捉えることがとても重要なんだ。沈黙なしには、音は存在できないんだよ。

太田:わかります。ただ、日本やイラクなど、『旅するローマ教皇』の中で沈黙が流れる場所は、あえて選んだのですか? それとも、実際に沈黙がそこにあったから、それらの場所のシーンを挿入したのですか?

ロージ:人工知能を使ったんだ。「5秒から10秒の沈黙を探してくれ」と言ったら、ピピピピピっとね。そこから抜き出して映画に使った(笑)。それは冗談だが、なんというか、ムードを構築するようなものさ。この作品の構造を見直したとき、正しい場所に沈黙があった。作品を作っていたとき、自ずと場所を見つけたんだ。編集は自分でやっていないが、あるところまでは選び、そのあとは任せた。編集チームが「トルコはここ。沈黙。イラクはここ。沈黙。日本はここ。沈黙」と伝えてきて、それがパーフェクトだったんだよ。それらを編集したあと時間軸を並べ替えたら、自ずと必然性がそこに生まれたんだ。

『旅するローマ教皇』よりブラジルを訪れる教皇

太田:フッテージを全て見返して、例えばブラジルでは沈黙がなかったせいでそういったシーンを選べなかったのでしょうか?

ロージ:ブラジルでは、より映画的な場面があった。先住民の女性と火事で燃える森の映像と、教皇の心の中で音が流れる場面。だからブラジルの部分ではそういうもので色々試してみたんだ。


太田:あなたの作品を観ると、あらゆるレベルでのコントラストの作り方にいつも驚かされます。先ほどは政治的映画を作りたかったと言っていましたが、同時に教会を批判したくないとも言っていますね。

ロージ:イデオロギー的な映画を作りたくなかったんだ。教会は放っておいても勝手に墓穴を掘る。ロープを渡せばひとりでに首を吊るよ。小児性愛、カナダの先住民抑圧......他に何が言える? すでにそこにあるのに。私が「ほら、これを見てくれ」なんて言う必要はないのさ。教皇自身が、教会は植民地主義的だと言っている。「お前たち馬鹿者が子供を犯している。そんなことは止めろ」と言っている。すでにそこに批判があるんだ。私が火に油を注ぐ必要はない。

太田:わかります。ただ興味深いのは、教皇の存在自体が、その教会システムによって支えられていることです。彼はアメリカ合衆国の議会に行って彼らの戦争ビジネスを批判していますが、戦争ビジネスに加担している多くの人たちがキリスト教の信者でもある。

ロージ:信者なだけでなく、過激派だ。彼らは教皇を嫌悪している。なぜならこの教皇はオープンすぎるから。彼は同性婚に賛成で、LGBTQをサポートしている。「LGBTQは教会の一部だ」と言っている。だから「教皇は悪だ」と言っている人々もいるし、教皇を認めない教会もある。教皇は「なぜ私がジャッジしないといけないのか。2人の人間が互いを愛し合っているなら、コミュニケーションを取っている限りにおいて、それは彼ら自身の課題であり、私が罰することなどできない」と言っている。数週間前にヴァチカンの彼のオフィスで会ったとき、彼は私に言ったよ。「ジャンフランコ、いつもリスクを取り、勇敢であれ」と。そして「この世界には保守的な人間が多すぎる」とも言っていた。「チャンスを掴み取り、戦え。凡庸になるな、戦え」ってね。

「君たち若い世代が、新しい言語を編み出していかなければいけない」


太田:胸を熱くする話が聞けてとても嬉しいのですが、時間が迫ってきています。最後に聞きたいことがあります。広義のノンフィクション映画についての、あなたから見える未来の可能性について教えてください。今、VRやメタヴァースなど、技術革新がさらに進み、人々の想像力も常に変化しています。新型コロナウイルスで中断したとはいえ、現代では世界中を移動できる。例えば、私はアマゾン熱帯雨林に1年間滞在しましたが、1世紀前にはそんなことができる人間など皆無に等しかった。つまり、私の経験は今とは異なる重みを持っていた。しかし、今ではパリやロンドンを歩いていると「へえ、アマゾンに行ったんだ。私もだよ」と言う人たちにすぐ出会ってしまう。このような技術革新や移動可能性の劇的な変化を踏まえて、あなたはどのように映画の未来を展望していますか?

ロージ:だからこの世界には情報が多すぎると言っているのさ。もう私がこれ以上情報を与える必要はない。今こそ、映画は詩学に立ち返り、現実を何か別物に変換しないといけないんだよ。1930年代には、人々はパリの映像を観て「わあ、パリはなんて美しいんだ......」と感動していた。一つ一つのフレームが驚きと、情報を発見することの連続だった。今、私たちにそれは必要ない。だから映画言語自体も変わる必要がある。

この前『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。正直、この作品のファンではないし、私の世界やイマジネーションとは異なる作品だ。しかし、この作品がアカデミー賞の7部門で受賞したことは、とても嬉しかったんだ。なぜかわかるかい? 新しいからさ。これは新しい言語なんだ。私の言語ではないけど、それが新しい言語だということを、称賛したいんだ。君たち若い世代が、新しい言語を編み出していかなければいけない。そうでなければ、映画は死んでしまう。

不運なことに、Netflixを始めとする巨大プラットフォームは、単調すぎる。そこには思考がない。彼らはアルゴリズムを基に作品を作り、これは良い、あれは悪いと、文句を言ったり説明したりインタビューしたりしているが、退屈だ。30年前の退屈な映画、退屈なドキュメンタリーに逆戻りしている。どれもこれも同じだよ。クリエイティビティのための隙間を残さないんだ。80年代や90年代には、映画にはとんでもないクリエイティビティがあった。今は誰もが「これが台本で、これをして、これを書いて......」と言いながらやっていて、作品はそれ通りにならないといけない。10個の質問、10個のインタビューを用意して、アルゴリズムに掛けて、「完璧な作品」を作ろうとする。ドキュメンタリーの本来の強みは、実験に次ぐ実験を重ねられることだ。彼らは実験するためのスペースをもはや残さない。そして、実験することをやめれば、映画は死ぬ。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、私は苦しみながら観たけど、なぜ受賞したのが嬉しかったかというと、それが「ハリウッドとは何か」という考え方に革命を起こしたからだ。ハリウッドは世界中を同じシネマ言語で征服している。Netflixはフィリピン人と南極人が同じ映画を作ることを望み、同じシネマ言語を使うことを強要する。それは言語の単一化だ。Netflixは監督の視点の強さを取り除き、監督の名前を中心に置くこともしない。それはもはや「Netflix映画」となり、監督は何者でもなくなる。つまり、彼らは「視点」を殺そうとしていて、フレーミングの持つ倫理的なパワーを消そうとしている。アルゴリズムに平伏すことで、実験精神のクリエイティビティを殺そうとしている。私の作品が一度もNetflixに買われたことがないのは、アルゴリズムにフィットしないからだ。私の作品を観たら、彼らはきっととち狂うだろうね。教皇のカナダでのシーンを観て「うわ、ピントが合ってないじゃないか」と文句を言うだろう。

太田:ありがとうございました。素晴らしいお話が聞けて、勇気をもらうことができました。深く感謝します。

ロージ:私はもう終わりが近い。これからは君が良い映画を作るんだ。

太田:終わりが近いようには全く見えませんよ!


Profile


ジャンフランコ・ロージ(写真左)
1964年エリトリア国アスマラ生まれ。イタリアの大学卒業後、1985年にニューヨーク大学フィルム・スクール卒業。その後、インドを旅し、1993年に制作と監督を務めた、ガンジス河岸の船乗りについての中編「Boatman(原題)」が、サンダンス、ロカルノ、トロントを含む様々な国際映画祭で上映され、成功を収めた。2008年、初長編ドキュメンタリー「Below Sea Level(原題)」が、ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門ドキュメンタリー賞、Doc/It賞を受賞したほか数々の翔にノミネート。2013年の長編映画『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』はベルナルド・ベルトルッチ監督、坂本龍一ら審査員に絶賛され、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞。ドキュメンタリー映画では初の快挙として話題を呼んだ。2016年、ランペドゥーサ島の住人や漁師、移民の物語『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』では、審査員長のメリル・ストリープが絶賛し、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。ヴェネチアに続き、ドキュメンタリー映画で初の最高賞受賞、その年のアカデミー賞®長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされた。2020年、『国境の夜想曲』はヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に選出され、ユニセフ賞のほか、3冠に輝いた。

太田光海(写真右)
1989年東京都生まれ。映像作家・文化人類学者。神戸大学国際文化学部、パリ社会科学高等研究院(EHESS)人類学修士課程を経て、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターにて博士号を取得した。パリ時代はモロッコやパリ郊外で人類学的調査を行いながら、共同通信パリ支局でカメラマン兼記者として活動した。この時期、映画の聖地シネマテーク・フランセーズに通いつめ、シャワーのように映像を浴びる。マンチェスター大学では文化人類学とドキュメンタリー映画を掛け合わせた先端手法を学び、アマゾン熱帯雨林での1年間の調査と滞在撮影を経て、初監督作品となる『カナルタ 螺旋状の夢』を発表。現在は太田のパートナーでもあり、3月に第一子の妊娠を発表したアーティストのコムアイの妊娠から出産にいたるまでを追いかけるアート・ドキュメンタリーを制作中。
(撮影=濱田晋/取材・文=太田光海)

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