『キリエのうた』この映画を観たあとには、アイスクリームが必要だ。
銭湯に入ったあとにはコーヒー牛乳。海で遊んだあとには焼きそば。花火大会のあとにはダラダラと歩きながら缶チューハイ。何かを一生懸命に摂取したり、発散したりすると、脳や全身が塩と糖を欲する。映画には、アイスクリームだ。
かけがえのないものは、怖い。何にも代え難いものというのは、恐ろしい。岩井俊二監督の最新作『キリエのうた』、この映画を観たあとにはとくにアイスクリームが必要で、そして、怖かった。
この映画には、代え難いものが詰まっているからだ。パンパンに。泣き出したいくらいに。
『キリエのうた』に詰まった「かけがえのなさ」
BiSHを解散し、ソロ活動を始めたばかりのアイナ・ジ・エンドが、主人公のひとり・キリエを演じる。彼女の歌声は、人の心にまっすぐ届き、ささくれた心を癒す……というよりは、まず、人を迷わせる。初めて訪れた土地、好奇心で入り込んだ路地。この先どこへ行けばいいのか、どこへ行けば自分が安心できるのか、わからなくって不安になる。キリエの声は、迷子みたいだ。探りながら、キョロキョロと惑いながら、腰を落ち着けられる場所を必死で探している。見つかる保証もないままに。
キリエのうたそのものも、そう。アイナがそのまま身体のなかに入り込んだような、でも限りなくキリエとしてそこにいる彼女は、まるで生まれた瞬間からずっと泣き続けているみたいだ。産声みたいな泣き声は、そのまま歌になった。迷いながら歌っている。自分のなかにある不安さえも巻き込みながら、歌い続けている。
その不安は、迷いは、聴いている人の心ごとからめとって、そのまま空中に浮き上がる。歌だ。声だ。音だ。気持ちがいい。迷っていて不安で怖くて悲しくて寂しくて、それなのに気持ちがいいなんて、もう、キリエの歌声から離れられない。他に代え難いものは、怖い。
この映画には、どうしようもない「かけがえのなさ」が詰まっている。これなしでは生きられない、残りの人生を生き抜けないと思える、代え難いものがこの映画には溢れている。
アイナと広瀬すずによる、アイスクリームに似たシスターフッド
シスターフッド。この言葉は、実態とは離れたところで流行りすぎている。「流行っているから」という理由だけで、この言葉を使いたくはない。けれど、シスターフッドの定義である「姉妹、または姉妹のような関係。目的、ゴールを共有した女性同士が連帯した様子」を全力で、身体中で表現したようなアイナと広瀬すずの演技を見ると、この言葉で表現せずにはいられない。
アイナが演じるのは、歌うことでしか声が出せない少女・キリエ。そんな彼女に出会い、プロデュースする役を買って出る女性が、広瀬すず演じるイッコだ。彼女たちをどうしようもなく繋ぎ留めるのは、キリエの歌である。
喉の奥から絞り出すように、声帯を震わせ、今この瞬間に出せる痛切な声で歌う。キリエの歌を聴いて、手放しに「救われた」「心があらわれた」と感じる聴衆はどれくらいいるだろう。最初は、迷うのだ。きっとイッコも、そう感じたに違いない。
生まれ落ちたからには、生きなければならない。それでも、どこへ向かって、何を道標にして進めばいいのかわからない。
やっと見つけた生きがいも、掴んだ理由も、手にした途端にスルスルと力なく抜け落ち、気づいたらなくしている。キリエと同じように、イッコもまた、生まれながらにして迷子のような存在だった。
見ているだけで観客を不安にさせるような彼女たちの姿は、まだ演技経験が浅いアイナと、役者として深いキャリアを積んでいる広瀬すず、この二人によってスクリーン上に生まれ落ちた。
見ようによってはデコボコな、混じり合うことのない個性は、見事なまでに融合している。違う味のアイスクリームが溶け合っていくように。
この映画は、怖い。ほかに代替可能な作品がないという意味で、きっと、この作品にとらわれながら先の人生を歩む観客が大勢いる。この怖さ、やりきれなさ、そして二人の女性が歩んだ人生と、選ばざるを得なかった生き方。それらを、私たちもともに抱えることになるだろう。
(文 北村有)
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