『首』考察——北野武はなぜ映画を“破壊”できるのか?
北野武監督の通算19本目となる新作映画『首』が、11月23日(木)より全国公開中だ。
2019年に発表された本人による同名小説を基に、織田信長(織田信長)の跡目を継ごうと、羽柴秀吉(ビートたけし)・明智光秀(西島秀俊)・徳川家康(小林薫)・荒木村重(遠藤憲一)ら戦国武将が知略を巡らすバイオレンス時代劇。
一部報道では「KADOKAWAとの対立でお蔵入りになる可能性も」と報じられていたが、6年ぶりとなるキタノ映画が無事公開の運びとなった。
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『首』は戦国映画を破壊する
原作は、北野武が2019年に発表した同名小説。明智光秀が本能寺の変を起こした理由は諸説あるが、この映画では「秀吉が光秀をそそのかした」という説を採用して、“昨日の敵は今日の友”的な策謀渦巻く物語が綴られる。
SNSやレビューでは「戦国版アウトレイジ」とも呼称されているが、確かに組長の“首”を巡ってヤクザが血みどろの抗争を繰り広げる『アウトレイジ』三部作(2010年・2012年・2017年)と、大将の“首”を巡って武将たちが合戦を繰り広げる『首』は、おおまかには同趣のアウトラインといえる。そしてどちらも様々な立場の人間が入り乱れ、“誰かが誰かをそそのかす”映画だ。
だが『首』は、『アウトレイジ』よりもはるかに奇妙なフィルムである。例えば謎の盲僧・光源坊(ホーキング青山)が登場する場面では、何を尋ねられても狐のお面を被った2人に女性がヘンなエフェクト・ボイスで喋るというキテレツ演出になっているし(しかも分割画面で!)、真夜中に村民たちが一心不乱に踊りまくるシーンは、マイケル・ジャクソン「スリラー」のような不可思議さ。
合戦は血生臭いリアリズム描写で徹底されているのに、服部半蔵(桐谷健太)と斎藤利三(勝村政信)が激突するシーンでは、なぜか荒唐無稽なワイヤー・アクションになるのも謎すぎる。いきなり香港映画のような趣なのだ。
さらに、コメディ要素が満載なのも本作の特徴。徳川家康が一晩を過ごす女性を選ぶシーンで、世話役の柴田理恵に白羽の矢が当たるのはワハハ本舗的な下らなさだし(褒めてます)、家康の影武者殺されてしまうたびに代わりの者を用意するくだりは、お笑いでいうところの天丼(同じことをあえて二度、三度と繰り返す手法)になっている。
男神輿に担がれて川を渡る場面では、秀吉が「秀長、馬鹿野郎!」と口にするのだが、これはもう「ダンカン、馬鹿野郎!」のセルフパロディとしか思えない。
北野武は、戦国映画というフォーマットを徹底的に嘲笑し、破壊し、脱構築しまくるのである。
▶︎映画『首』の原作小説を読む
“ビートたけし”という大きな文脈
初期の『3-4X10月』(1990年)や『ソナチネ』(1993年)が脱力系ヤクザ映画だったのに対し、そのあとに作られた『BROTHER』(2001年)や『アウトレイジ』は王道のヤクザ映画として作られている。
考えてみると、これはかなり不思議なことだ。まず王道を描き、その後に王道を崩すのが普通の順番だと思うのだが、彼の場合は最初から既存のフォーマットを破壊してしまう。その手つきは、大胆極まりない。
これができるのは「北野武=ビートたけし」だからだ。彼はお笑い芸人という肩書きを飛び越え、その存在自体がもはやひとつのジャンルとなっている。表現者としてテレビ・ラジオ・絵画・小説という様々なメディアを自由に往還するからこそ、彼はいともたやすく破壊できるのだ。
普通の映画監督ならば、その評価は過去のフィルモグラフィーによって決定されてしまう。だが北野武の場合は、傑作はもちろん凡作すらもビートたけしという大きな文脈の中の一つに回収され、映画というアートフォームとは別の視点で解体されていく。もはやこれは無敵モード。何をやっても“アリ”になってしまうのだから。
ぶっ飛んだコメディ映画『みんな〜やってるか!』(1995年)の奇想天外なナンセンスぶりも、たけしがたけしを演じる『TAKESHIS'』(2005年)の自己批評的な視座も、全てはビートたけしという一人の天才の考察に収斂していく。その回路は、彼だけに許された特権である。
かつて北野武は、次のように発言している。
「みんな映画というものを愛している。そんな人たちを客観的にみて、(自分は)笑ってしまう。(中略)いい映画というのは、のめりこんだ人たちによって作られた映画だ。その反対側にぽつんと自分の映画がある」
この距離感が、彼の映画に対する視座なのだろう。
そういう意味で、清水宗治(荒川良々)が船上で切腹するシーンは象徴的だ。彼は作法に則って、淡々と割腹までの手続きを踏んでいく。その宗治に対して、羽柴秀長(大森南朋)は「まだやっているのよ!」と茶々を入れる。それは、時代劇そのものに茶々を入れる行為に他ならない。
BL的要素、コメディ要素を含んだ異色の時代劇『首』は、映画を破壊できる特権性を有した北野武ならではのフィルムに仕上がっている。
(文:竹島ルイ)
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