この美しさには、毒がある――篠田正浩監督が描いた愛と幻想の名作3選

金曜映画ナビ

2025年3月25日、日本映画史に大きな足跡を残した映画監督・篠田正浩がこの世を去った。

1960年に『恋の片道切符』で監督デビュー。
大島渚、吉田喜重らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの一角を担い、若者の焦燥、政治の季節、都市の虚無を鋭く切り取った篠田は、やがて日本の古典芸能、歴史、伝承、そして死生観へと深く分け入っていく。

篠田映画の面白さは、単に“美しい”ことにあるのではない。
その美しさが、いつもどこか危ういことにある。
人が社会から外れていく瞬間。恋が不義と呼ばれる瞬間。
伝説が迷信ではなく、現実を飲み込む力として立ち上がる瞬間。
篠田正浩の映画では、美はしばしば、禁忌のほうへ流れていく。

今回の金曜映画ナビでは、篠田正浩監督作から『鑓の権三』『美しさと哀しみと』『夜叉ヶ池』の3本を紹介する。
近松門左衛門、川端康成、泉鏡花――日本文学・古典芸能の濃密な世界と向き合いながら、篠田が映画として何を引き出したのか。
3作品を通して見えてくるのは、愛と死、官能と制度、幻想と現実の境界を見つめ続けた、ひとりの映画作家のまなざしである。

『鑓の権三』――不義密通の濡れ衣が、やがて“美の道行”へ変わる

©1986/2022 表現社/松竹株式会社

1986年公開の『鑓の権三』は、篠田正浩が近松門左衛門の世界に再び挑んだ時代劇である。
『心中天網島』以来、篠田にとって近松は、単なる古典ではなく、社会の掟に追い詰められた男女が、死のほうへ歩きながらも、どこかで自由を獲得していくための巨大な装置だった。

舞台は出雲国・松江藩。槍の名手であり、美男の表小姓でもある権三を郷ひろみが演じる。
権三は、江戸へ赴任中の茶道の師の妻・おさゐに茶道の伝授を請う。
しかし、その場を目撃した同僚によって、ふたりは不義密通の濡れ衣を着せられてしまう。
武家社会において、疑いは時に事実より重い。
濡れ衣であっても、噂が立てば、もう元の場所には戻れない。

ここで重要なのは、篠田がこの物語を“悲劇”としてだけ描いていないことだ。
もちろん、権三とおさゐは社会的には敗者である。
武家の秩序から弾き出され、弁明の余地も奪われ、逃げるしかない。
だが、篠田の画面は、ふたりを単なる被害者として扱わない。
道行の果てにあるのは破滅でありながら、同時に、制度から解き放たれた男女だけが到達できる、奇妙な気高さでもある。

おさゐを演じる岩下志麻の存在感は圧倒的だ。
篠田映画において岩下志麻は、しばしば“社会の掟”と“内なる情念”のあいだで引き裂かれる女性を演じてきた。
『鑓の権三』のおさゐもまた、貞淑な武家の妻でありながら、濡れ衣を着せられた瞬間から、社会が彼女に求める役割を超えていく。
毅然としていて、凛としていて、それでいてどこか、死に向かう美しさをまとっている。

©1986/2022 表現社/松竹株式会社

一方の郷ひろみは、権三という人物に若さと危うさを与えている。
権三は、計算高い色男ではない。
むしろ、世間の悪意や制度の冷酷さを読み切れないまま、流れに巻き込まれていく人物である。
だからこそ、彼の美しさは“無垢”に近い。篠田はその無垢を、武家社会の硬い形式の中に置くことで、いっそう痛ましいものとして浮かび上がらせる。

撮影は名手・宮川一夫、美術は粟津潔、音楽は武満徹。
スタッフ名を見ただけでも、この作品が単なる時代劇ではなく、視覚と音響の総合芸術として設計されていることがわかる。
畳、襖、茶室、道行、衣装の色。すべてが、人物の感情を説明するのではなく、感情が閉じ込められていく空間として働いている。

『鑓の権三』は、第36回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞した。
海外で評価されたのも納得できる。
ここにあるのは、時代劇の物語でありながら、極めて普遍的な問いだからだ。
人は、社会が決めた罪を背負わされたとき、それでも自分の生を美しく生きることができるのか。

篠田はその問いを、官能と様式美の中に封じ込めた。

『美しさと哀しみと』――川端康成の世界を、加賀まりこと八千草薫が揺らす

©1965 松竹株式会社

1965年公開の『美しさと哀しみと』は、川端康成の同名小説を映画化した作品である。

物語の中心にいるのは、過去に少女・音子を身ごもらせた小説家・大木。
20年の時を経て、彼は画家となった音子を京都に訪ねる。
かつての恋、裏切り、喪失、そして記憶。そこへ、音子の弟子である若い女性・けい子が現れる。けい子は、音子の過去に執着し、大木の家族を巻き込むようにして、愛憎の渦を広げていく。

この映画でまず目を奪われるのは、加賀まりこの存在である。
公式解説にもあるように、彼女が演じるけい子は、“魔性”という言葉で語られがちな人物だ。
しかし、いま改めて見ると、けい子は単なる男を惑わす女性ではない。
彼女は、他人の過去の痛みを自分のものとして引き受け、その痛みを破壊衝動へ変えてしまう存在である。

加賀まりこの眼差しには、少女のような透明感と、底の見えない悪意が同時に宿る。
美しいのに、安心できない。
無邪気に見えるのに、どこまで計算しているのかわからない。
その不安定さこそが、『美しさと哀しみと』の温度を決めている。

一方、八千草薫が演じる音子は、静けさの中に深い傷を抱えている。
かつての恋を忘れられず、それを芸術へと昇華しながら生きてきた女性。
八千草薫の演技は、感情を大きく爆発させるのではなく、むしろ抑えることで、その奥にある哀しみを見せる。
アジア映画祭で助演女優賞を受賞したことも頷ける繊細さだ。

©1965 松竹株式会社

篠田は本作で、京都と鎌倉という二つの古都を舞台に、過去と現在、芸術と肉体、記憶と復讐を重ねていく。
川端康成の文学に漂う余白、沈黙、官能を、映画は映像と音で受け止める。
武満徹の音楽もまた、感情を煽るのではなく、むしろ登場人物たちの孤独を静かに浮かび上がらせる。

この作品の恐ろしさは、誰も完全な悪人ではないことにある。
大木は過去の罪を抱え、音子はその傷を抱え、けい子はその傷に引き寄せられる。
そして大木の家族もまた、過去の恋の残響から逃れられない。
ひとつの恋が終わった後も、その記憶は別の人間の人生に入り込み、形を変えて生き続ける。

タイトルの『美しさと哀しみと』は、決して飾りではない。
美しさは、ここでは救いではなく、むしろ哀しみを長引かせるものとしてある。
美しい記憶ほど忘れられず、美しい人ほど誰かを傷つけ、美しい芸術ほど過去を保存してしまう。篠田は川端文学の耽美を、単なる情緒ではなく、逃れられない呪いとして映画化している。

『夜叉ヶ池』――伝説は、水となって現実を呑み込む

©1979/2021 松竹株式会社

1979年公開の『夜叉ヶ池』は、泉鏡花の戯曲を原作にした幻想譚であり、篠田正浩のフィルモグラフィーの中でも、ひときわ異彩を放つ作品である。

夜叉ヶ池の伝説を調査するため山中へやってきた学者・山沢は、池のほとりで百合という美しい女性に出会う。
やがて彼は、かつての親友・晃が、夜叉ヶ池の調査に出たまま戻らず、百合の夫となって鐘楼守をしていることを知る。
夜叉ヶ池には竜神が封じ込められており、日に三度鐘を撞かなければ、竜神が暴れて大洪水を引き起こすという。

この設定だけでも十分に幻想的だが、篠田はそれを写実的に処理しない。
むしろ、歌舞伎、怪談、特撮、電子音楽を大胆に混ぜ合わせ、現実と異界の境目を少しずつ溶かしていく。

最大の魅力は、坂東玉三郎である。
百合と白雪姫を演じる玉三郎の存在は、映画のリアリズムを根本から揺らす。
彼が画面に現れた瞬間、観客は「この人物は現実の住人なのか、それともすでに異界の側に属しているのか」と考え始める。
篠田はそこを曖昧なままにしておく。
だからこそ、『夜叉ヶ池』の幻想は説明ではなく、気配として立ち上がる。

加藤剛と山﨑努は、その幻想の中で現実側の足場を担う。
加藤剛の端正さ、山﨑努の知的な佇まいがあるからこそ、玉三郎の異界性が際立つ。
彼らが“普通の人間”として画面に立てば立つほど、夜叉ヶ池の世界は不気味に膨張していく。

©1979/2021 松竹株式会社

そして、忘れてはならないのが冨田勲の音楽である。
電子音が生み出す浮遊感は、泉鏡花の幻想世界と見事に呼応している。
自然を描きながら、自然そのものではない。
伝説を描きながら、古めかしいだけではない。
『夜叉ヶ池』は、古典を現代の感覚で再構築する篠田の美学が、もっとも大胆に表れた作品のひとつである。

本作は2021年、4Kデジタルリマスター版がカンヌ国際映画祭クラシック部門に出品され、国際的にも再評価の機会を得た。
長い眠りから目覚めるように、映画そのものが再び観客の前に現れたことは、この作品にとてもよく似合っている。

『夜叉ヶ池』が現代的なのは、単に幻想的だからではない。
村が干ばつに苦しみ、人々が不安に駆られ、やがて誰かを犠牲にしようとする。
その構図は、災害や危機の時代における共同体の恐ろしさを映し出している。
伝説は過去のものではない。人間が恐怖に支配されたとき、伝説は水となって現実を呑み込む。

3本を並べると見えてくる、篠田正浩の一貫したまなざし

『鑓の権三』では、武家社会の掟が男女を追い詰める。
『美しさと哀しみと』では、過去の恋が現在の人間関係を狂わせる。
『夜叉ヶ池』では、共同体の恐怖と伝説がひとりの女性を犠牲へ向かわせる。

時代も題材も違う。
しかし、3本に共通しているのは、個人の感情が社会や制度、伝承によって押しつぶされていく構図である。
篠田正浩は、いつも“美しいもの”を描きながら、その美しさを取り巻く暴力を見逃さなかった。

恋は美しい。
だが、恋は社会の掟に触れた瞬間、罪になる。
記憶は美しい。
だが、美しい記憶ほど、人を過去に縛りつける。
伝説は美しい。
だが、伝説は共同体の恐怖と結びついた瞬間、誰かを犠牲にする力を持つ。

篠田映画における美は、安全な場所に飾られたものではない。
それはいつも、死や破滅や禁忌のすぐ隣にある。
だからこそ、いま観ても強い。
美しさに見惚れているうちに、観客はいつの間にか、人間の業の深い場所まで連れていかれる。

『鑓の権三』『美しさと哀しみと』『夜叉ヶ池』は、篠田正浩という映画作家の“古典へのまなざし”を知るうえで、非常に豊かな3本である。
古典をそのままありがたがるのではなく、現代の感情と映像表現で揺さぶり直す。
文学や演劇に刻まれた情念を、映画の光、音、身体へと移し替える。

篠田正浩の映画は、古びない。
なぜなら、そこに描かれているのが、時代劇や文芸映画や幻想譚の形を借りた、人間の変わらない弱さだからだ。
愛したい。
忘れたい。
逃げたい。
守りたい。
けれど、その願いはいつも、社会や記憶や共同体に絡め取られていく。

それでも篠田は、破滅へ向かう人物たちを、ただ惨めには描かない。
むしろ、その破滅の道行にこそ、人間が最後に手にする美しさがあると信じていたかのようだ。

篠田正浩の映画を観ることは、美に酔うことではない。
美がどれほど危うく、どれほど哀しく、どれほど人を遠くへ連れていくものなのかを知ることなのだ。

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