本物のホラー映画の〝恐怖〟は〝不安〟から生まれる

連載の1回目ということで、比較的入り易いところから攻めてみようと思うと、やはりジャンル映画に落ち着く。とはいえ、私自身ジャンル映画はそれほど好きではない。

「この映画はこのジャンルの映画だ」とレッテルを貼られてしまうと、正解の見方が絞られてしまうような気がして、どうにも箸が進まないのだ。だからこそ、ひどく曖昧な「ヒューマンドラマ」のようなジャンルがいいのかと言われると、スクリーンに2時間も映し出される感情をすべて受け止めるほどのキャパシティを用意していないので、できるだけロジカルなドラマを好んでしまうのだから、映画の好みなんて極めてぼんやりとしているものだ。

苦手なジャンルの代名詞といえば、少なからずいると思うがホラーと戦争。

あと個人的には勧善懲悪で人がばんばん死んでいく様を見るのが辛いから西部劇と時代劇も比較的苦手な部類に入るのだが、要するに人が死ぬ姿など演技でも観たくないのである。

あえて今回は「ホラー」というジャンルにフィーチャーしようと思うのだけれど、私が「ホラーが苦手」であると意識するようになったのは小学校低学年の頃。きっかけはどうせテレビでやっていたスプラッター映画だろうか。

人格が形成される段階で観たものは、明らかにその人の人格に影響をもたらすもので、今でもオールタイム100なんてものを作ってみると、(1監督1作品という制限をしてはいるが)実際ランクインするホラー映画は2本しかないことに気が付いた。

その内の一本が、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト ディレクターズカット版』である。

エクソシスト ディレクターズカット版 (字幕版)

『エクソシスト』ではない(が、表記の都合上以後はこちらのタイトルで書く)。2000年にリバイバル公開された、オリジナルよりも少し尺が長い「ディレクターズカット版」の方であり、おそらく今レンタルショップで容易に借りることができるのはこちらのほうだろうか。

2000年10月にリバイバル公開が予定されていたが、結果12月に延期となったときに受けたショックは忘れられない。たかが2ヶ月ではあるが、小学生にはあまりにも長いのだ。(延期の穴を埋めるように公開された『ロック・スター』があまりにも凡庸だったせいもあって)

当時小学六年生の浅はかな映画脳では、単純に「怖い」ということしか感じられなかった。悪魔に取り憑かれた少女リーガンと、彼女に憑いた悪魔パズズvs年老いたメリン神父と若いカラス神父の壮絶なる対決は、スクリーンに齧り付くほどに見入ってしまったのである。

冷静に考えてみると、ポルターガイスト現象が起こり、少女の様子がおかしくなってきたりと明らかな変調を露見させる前半部から、やがて取り憑かれていく過程で首が一回転したり緑色のヘドを吐くように、不快感を与える描写あるが、多くのホラー映画で使われているようなショッカーが全くないのである。一体何が怖かったのだろうか。

その答えは、強烈なインパクトを残すテーマ曲の音階も含めて「観客を不安にさせる」描写の積み重ねによって恐怖を誘引させる道筋が構築されているからである。直接的に悪魔バズズの顔をサブリミナルさせる荒っぽい技をなしていることはともかくとして、恐怖というのは直接提示してしまっては恐怖には成り得ないということを提言しているかのようである。

そこでもう一本のオールタイムベスト級のホラー映画に話を移そう。『エクソシスト』の40年前に遡るので、現在から考えると80年以上前のことになる。デンマークのカール・テオドール・ドライエルが発表した中編『吸血鬼』は、ホラーのジャンルに含めていいのか悩ましくなるほどに、直接的な描写がない。

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もっとも、今日本で観られるものが75分版であるが、ドイツでは83分版があったりと、結局何分の映画なのかがわからないことにも原因があるのかもしれないが、ひどく曖昧な描写の連続によって、観客を感覚的な恐怖に陥れるのである。

この2本を並べてみても、根底にあるのが悪魔という宗教的なものである『エクソシスト』と、文学的な存在である『吸血鬼』なのだから、同じオカルティックなホラーの分野という以外に共通項は無いように見える。

それでも、ドライエルの『吸血鬼』は、それ以前に作られているムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』よりも冷静に現象としての吸血鬼を捉えており、その後多くの吸血鬼映画で扱われているような〝怪物〟としての存在にもしていない。

同様に『エクソシスト』も、悪魔という存在に立ち向かうという現象を描くだけであり、それに取り憑かれたリーガンは徹頭徹尾人間の、至って普通の少女であるという見せ方から揺るがないのである。その点では『オーメン』のようにダミアンは悪魔の子だということを主張するものとは別のタイプであると言える。

そして『吸血鬼』は、完全に〝シルエット〟の映画である。腰掛けている人物に、影が近づき同じポーズをとって座るという象徴的なシーンや、大きな鍬を持った人物が、さも人知を越した何かであるかのように、不安描写を用いるために多用される影は、その人物を映さなかったり、人物とは異なる動きをすることによって〝シャドー〟ではなく〝シルエット〟となる。

一方『エクソシスト』では、クライマックスでベッドの上に立ち上がる、取り憑かれたリーガンの姿が、逆光気味に描かれることでシルエットが浮き彫りになる。つまりこの2本は、オカルト的な存在を直接的ではないにしろ、〝シルエット〟として具現化しておきながら、曖昧な形のまま映し出すタイプの映画として共通しているのではないだろうか。その曖昧さによって与えられる〝不安〟こそが、映画的な〝恐怖〟の原始なのである。

(文:久保田和馬)

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