『地獄の黙示録』劇場初公開版リバイバル上映に寄せて

■「キネマニア共和国」

フランシス・F・コッポラ監督による20世紀を代表する戦争映画の名作『地獄の黙示録』(79)がリバイバルされます。

地獄の黙示録

(C)1979 Omni Zoetrope. All Rights Reserved. 


大きく3つのヴァージョンが存在する本作の中……

キネマニア共和国~レインボー通りの映画街~vol.123》

今回は劇場初公開版(70ミリ版と同じもの)での上映となります!

映画同様、いやそれ以上の
地獄と化した撮影


『地獄の黙示録』は、1970年代に『ゴッドファーザー』(72)『カンバーセーション…盗聴…』(73)『ゴッドファーザーPARTⅡ』(74)と名作を連打して時の人となったいたフランシス・フォード・コッポラ監督が己の映画人生をかけて手掛けたヴェトナム戦争超大作です。

ストーリーは、ベトナムの戦場から姿を消してジャングル奥地に自らの王国を建てたカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺する任を受けたウィラード少佐(マーティン・シーン)の地獄のような運命を壮大なスケールで描いたもの。

ウィリアム・コンラッドの『闇の奥』を原作に、舞台をヴェトナム戦争に移し、ジョン・ミリアスが脚本を執筆(もともと本作はミリアスとジョージ・ルーカスが学生時代に企画していたものでした)しながらも、その稿はほとんどコッポラによって書き換えられ、またウィラード役に当初ハーヴェイ・カイテルがキャスティングされていたものの、クランクインして2週間で降板。

これを象徴とするかのように、本作の撮影はまさに「地獄」と化していきます。

フィリピンで行われた撮影は、フィリピン軍の協力なしには成し得ないものでしたが、おりしも共産ゲリラとの内戦によって協力体制に支障が生じ、また台風でセットが崩壊したり、さらにはコッポラ自身の現場における数々の完全主義的こだわりによって撮影はなかなか進まず、おまけにウイラード役のマーティン・シーンは心臓麻痺で死にかけるは、マーロン・ブランドはわがままを言うは、カメラマン役のデニス・ホッパーは麻薬中毒でらりっているは、などなど、ついにはコッポラも心労で倒れ(このとき彼は「私が死んだらミリアスが、ミリアスが倒れたらルーカスが、この映画を完成させるのだ!」と叫んだとも伝えられています)、

もはやクランクアップ出来ないのではないかとまで当時は噂されていたものですが、結果として76年3月から始まった撮影は61週間後の78年1月にようやく終わり、予算も1200万ドルから3100万ドルにまで膨れ上がり(そのうち、およそ半分はコッポラが自腹を切っています)、編集もおよそ2年かけて、ようやく映画は79年に完成しました。

この「地獄」を目の当たりにしたコッポラ夫人エレノア・コッポラは、後にメイキング本『ノーツ コッポラの黙示録』を出版し、さらにはドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(91)を完成させています。本作と併せて見ると、その面白さも格別なものがあります。

本作の名セリフ“horror”は
「恐怖」と「怖い」、どう訳す?


79年度のカンヌ国際映画祭には未完成のまま出品しながらも、『地獄の黙示録』はパルムドールを受賞し、おりしも『タクシー・ドライバー』(76)『ローリングサンダー』(77)『ドッグ・ソルジャー』(78)『ディア・ハンター』(78)『帰郷』(78)などのヴェトナム帰還兵を扱った映画がブームとなっていた中、ヴェトナムの戦場を壮麗なオペラのごとく描いた戦争映画超大作として迎えられることになりましたが、公開当時の批評は賛否真っ二つに割れました。

この中で特にユニークな評ととして今も心に残っているのは、コッポラの映画の心の師匠でもある黒澤明が「キネマ旬報」誌に載せた作品評で、彼はカーツが最後につぶやく“horror,horror”という台詞が日本語字幕で「恐怖だ。地獄の恐怖だ」と記されていたことに対し、「私は『怖い』と訳してもらいたかった」と記していたのです。これは実に的を射た巨匠ならではの意見だと思います。

(未見の方は、見ていただければわかるでしょう。また本作の後くらいからホラー映画という言葉が広く浸透していった感もあります。それまで怖い類の映画は“恐怖映画”と呼ぶのが一般的でした)

微妙に印象が異なる
3つのヴァージョン


さて『地獄の黙示録』は大きく3つのヴァージョンが劇場公開されています。

まずは70ミリ版。これはタイトルも、スタッフ&キャストのクレジットすらない、ただドラマだけを見せた版で、公開時は70ミリの上映が可能な一部劇場だけで上映されました(今回のリバイバルは、この70ミリ版です)。

次に35ミリ版。こちらは70ミリ版にタイトルやスタッフ&キャストをクレジットしたエンドロールをつけ加えたもので、またそこには70ミリ版ラストの後で何が起こったかも描かれています。当時多くの劇場で上映されたのは、この35ミリ版で、私も初公開に地元で見たのはこのヴァージョンで、後に上京してリバイバルで70ミリ版を見ましたが、鑑賞後も悪夢のようなドラマが脳裏にこびりつき、いつまでも引きずるのは70ミリ版のほうでした。

もう1本、2001年に53分の未公開シーンが加えられた『特別完全版』が公開されています(もともと本作は初公開時から「本来つなぐと5時間くらいになる」とも「いずれTVミニシリーズとして長尺版がお目見えする」など、いろいろな噂が飛び交っていました)。これはウィラードたちがフランス人入植者たちと交流するエピソードを盛り込むことで、西洋人の欺瞞などが露になっていきますが、初公開版と比べると一長一短。あとは好みの問題かなと思えるほど、印象は異なります。

初公開時、「戦争ほど美しいものはない。そうでなければこれほどまでに人間が戦争を繰り返すはずがない」と名言を残したコッポラですが、やはり『地獄の黙示録』の後遺症はなかなか癒されることなく、80年代以降の彼は一転してロマンティック歌劇『ワン・フロム・ザ・ハート』(82)を自身のスタジオ“ゾーエトロープ・スタジオ”で撮影するも、これが興行的に失敗するなど、3度の破産を宣告され、さらには息子の事故死などで苦境にさらされますが、次第に落ち着きを取り戻し、今では悠々たる姿勢を保つ巨匠として君臨しています。

もしくは、『ロスト・イン・トランスレーション』(03)『ブリングリング』(13)などのソフィア・コッポラ監督のお父さんといったほうがわかりやすいかもしれませんね。

あの時期、1970年代後半から80年代にかけてのコッポラの狂気を目の当たりにした世代としては、今の映画界はノーマルで落ち着いている分、どこか物足りなさを覚えたりもしてしまいますが、そこをノスタルジックに回顧するのはともかく、今の時代にそれを求めるのもナンセンスではあるでしょう。

ただし、あの時代、映画において何があったかを知ることは有意義ではないかとも思われます。

『地獄の黙示録』はそれを教えてくれる貴重な作品です。

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(文:増當竜也

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