レビューではなく無駄話で『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を語る

クエンティン・タランティーノの最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は「ワンハリ」と略されるが、そういえば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』も「ワンチャイ」と呼ばれていた。

木村拓哉を「キムタク」と、ジミ・ヘンドリクスを「ジミヘン」と呼ぶように、略称には対象を身近に引き寄せて親近感を抱かせるとともに「なんだかちょっと軽い感じにしてしまう」効果がある。「軽い感じ」といえば最近ではアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』の「神たそ」もなかなかのハードパンチャーだった。いくらなんでも内容に比して軽すぎるだろう。

しかも「たそ」である。「たそ」は『けいおん!』の琴吹紬を「むぎたそ」と呼ぶように、主に二次元の美少女を呼称する際に使われているので、そう考えると「神たそ」の破壊力は凄まじい。「神は美少女なのか」まるで哲学的な問いである。となれば「神たそ」という略称は軽いどころか、むしろ重めなのではと疑問はつきないが、とにかく『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は「ワンハリ」と略されるし、クエンティン・タランティーノは未だに「タラちゃん」と一部では呼ばれている。そもそも、日本人がタラちゃんと言われて即座に想起するのは磯野家に居住する三歳児のことではないのか。

さらに主演のレオナルド・ディカプリオの愛称は「レオ様」だが、日本人がレオ様と聞いて真っ先に思い浮かぶのは『ジャングル大帝レオ』もしくはレオナルド熊ではないのか。さらにダブル主演のブラッド・ピットは「ブラピ」だ。となれば、だいぶ無理筋な気がしないでもないが、思い浮かぶは「ブラビ」ではないのか。ビビアン・スーは今、なんと44歳である。

確かに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は言い辛い

括弧を含めたら24文字もある。略したくなる気持ちもわかる。とくに「ワンス・アポン・ア・タイム」の「ア」が筆者には厳しい。本作の話を誰かとしていると、つい「ワンス・アポン・タイム・イン・ハリウッド」と言ってしまう。

ただ、やはり『ワンハリ』は少々軽すぎる気がする。なので、喋るときにしろSNSで書くにしろ、こうしてコラムを綴るにしろ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』表記は死守していきたい。本作は筆者にとって、軽くすることなど決してできない、実質的な重みを持っているからだ。

それはさておき『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜シャロン・テート殺人事件〜』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜地獄のマンソン・ファミリー』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜俺たち無敵の最強コンビ〜』とか『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜ヒッピー崩れをぶっ飛ばせ〜』なんて副題が付けられなくてよかった。SNSでの宣伝はもちろん、マスコミ披露試写の日程(シャロン・テート事件の日だった。狙ったか偶然だったかどうかは知らないが、同じことである)含め、配給会社のスマートな広報にまずは厚く御礼を述べたい。

無駄話はこのくらいにして

違う無駄話をしていきたい。本作に関しては、すでに多くのレビューが出回っている。本媒体でもクロスレビューになるそうなので、皆さん得意な分野で素晴らしい評が出るはずだ。なので、筆者としてはもう書くことなど何もなくて困っている。とくに前知識として抑えておきたい「シャロン・テート事件」やマンソン・ファミリー、ヒッピー文化やカウンターカルチャーあたりは、検索一発でかなり詳細な情報が得られる。

となると、未だ書かれていないことを書くためには、本編に触れる(それも割と革新的な部分に)のが手っ取り早いが、これは不可能だ。なぜか。ネタバレが一文字たりとも許されないからである。タランティーノもネタバレ禁止とお達しを出している。じゃによってお漏らしはできない。

そして、本作の「漏らしていけない度」は残尿感すら許されない。試しにどのくらいネタバレできないか書いてみる。

『イングロリアス・バスターズ』で

もうこの時点で無理である。

『デス・プルーフ in グラインドハウス』で言うならば、スタントマン・マイク(カート・ラッセル)が

やっぱり無理である。

タランティーノの作品を並べ、類似性を突いていくだけで感が良い人は話の筋がわかってしまう。ネタバレは書いている個人が「ネタバレではない」と思っても、受け手が「ネタバレ」だと感じてしまえばネタバレである。なのでネタバレせずに何かを書こうと思ったら、これはもう改行でスペースを稼ぎ、一見関係のあるようでその実何ら関連性の無い話を書いて文字数を稼ぎ「なるほど、これだけ長い文章なんだから中身があるんだろう」と読者に対してハッタリをかまさなければ原稿料が稼げない。ちなみにここまでの話を一言で書くならば「筆者の筆力が足りない」で済む。

と、とにかくネタバレできないのだが、一点だけ有用なことを書く。既に多くの同意見があるが「シャロン・テート事件」だけは必ず調べてから鑑賞していただきたい。本作は『この世界の片隅に』と構造が似ているので、当該事件を知らないと、「それが起きてしまう日」までのカウントダウンと、サスペンスが楽しめない。

無駄話はこのくらいにして(2)

さらに無駄話を続けるが、タランティーノといえば「無駄話」の多さである。無駄話以外も「話し合う」シーンが異常に多い。本作ももちろんそうだ。なので、引き続き無駄話をすることで、原稿を何とかしていきたい。

さて、「人は言葉でできている」と言わずとも、本コラムを書いている私も、読んでいるあなたも言葉を介して繋がっている。

これは人間対人間でなくとも同じである。たとえば、突如世界中に出現した巨大なばかうけの中で繰り広げられる異星人との異文化コミュニケーションを描いた傑作『メッセージ』では、言語学者のルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)がタコのような宇宙人と「言葉」でコミュニケーションを図る。彼女はまず、一枚のホワイトボードを用意して「HUMAN」と書き、自らを指差す。日本で最も著名なSSWである剛田武のコンサートも一発目の歌い出しは必ず「俺はジャイアン」からはじまるが、たぶんあんな感じだ。ちなみに英語圏では、剛田武は「ビッグG」、バディを組む骨川スネ夫は「スニーチ」と呼ばれている。

エニウェイ、知らない相手(言語の通じない相手)との会話では、まず素性を明かして共通の語彙を探し出す。そしてどのような文脈から相手は語っているのかを少しずつ理解していくのが重要で、つまり人間同士のコミュニケーションとまったく同じである。

相手が人間だろうが正体不明のタコに似た生物だろうが、コミュニケーションができなければ文字通り話にならない。だから人は、巧拙の違いはあれど言葉を使って話し合う。そして古くから「言霊」というように、言葉には強い力が宿っている。

たとえば

「タンスの角に小指をぶつけた」

という言葉を思い浮かべたとき、実際にぶつけていないのに傷むような感覚を覚えてしまわないだろうか。「親指の爪の間に画鋲が刺さった」でもいい。書いているだけで痛い。

もっと言ってしまえば、今あなたが一番嫌いな人間の顔を思い浮かべて欲しい。そして、そいつに言われたら一番腹が立つ言葉を想像して欲しい。何だか、ものすごくムカついてこないだろうか?

嫌いな人物を脳裏に浮かべたまま話を続けると心に良くないので、一旦深呼吸をし、適宜「ひよこ」とか「猫」とか、かわいい動物などをイメージして気持ちを落ち着付けて欲しい。落ち着くと思う。これもまた言葉の力である。

ひよこや猫を思い浮かべていただいたところで

このように、当たり前だが言葉にはとてつもない力がある。きちんと使えば便利だが、振り回せば人が死ぬ刃物みたいなもんで、極論を述べるならば、恋愛も、戦争も、すべては言葉から始まる。そしてまた、始まってしまった出来事を終わらせるのも言葉だ。

再び映画を例に出すが、近年で言えば『日本のいちばん長い日』は、言葉により始まった太平洋戦争を、言葉によって終わらせる作品だ。監督である原田眞人つながりでいうならば『駆込み女と駆出し男』もまた、徹底的に言葉を巡る話である。

ただ、タランティーノ流の無駄話・会話は、上記の作品とはまた違った趣がある。言わば日常で交わされる、すぐに消えてしまうような他愛のない話だ。だが、その言葉は「チーズロワイヤル」、「5ドルのミルクシェイク」のように鑑賞者の心に不思議と残り続ける。今更何をといった感じだが、この言葉の使い方がタランティーノ映画の特徴でもあり、今や「タランティーノっぽい会話」として1ジャンルを築いたといっても言いすぎでないだろう。

その会話はずっと見ていたくなるし、何なら見ながら寝てしまいたくなるほどだが、見続けても寝ても幸せで、つまり贅沢さがある。で、贅沢な会話がある映画には傑作が多い。

またまた例えになるが、『ありがとう、トニ・エルドマン』はユーモア欠落症患者のために言葉を用いて「笑い」の大切さを教えてくれるし、『スモーク』は街角のタバコ屋で繰り広げられる(ある意味)日常がどれだけ尊いものかを描き出す。そういえば『人生はローリング・ストーン』なんて映画もあった。小説家とローリングストーン誌の記者がさまざまな事柄について話し合う。とにかく会話と食事シーンが素晴らしい作品だ。監督のジェームズ・ポンソルトは、その後に珍作『ザ・サークル』を撮ったが、一体何があったのだろうか。それはさておき、ジョン・キューザックとジャック・ブラックが最高値を記録した『ハイ・フィデリティ』もまた、音楽マニア以外にはまったく伝わらない会話をし続けるという、無駄話の極地のような作品である。完全なる独断だが、いずれも劇中で贅沢な会話がなされる傑作である。『ザ・サークル』は除く。

ときに、無駄なことをするのが贅沢であるとすれば、贅沢な会話とは無駄話である

「贅沢は無駄」とよくいわれるが、贅沢(無駄)には強い快楽が伴う。無駄な会話もまたしかりである。ベタな例を挙げるならば、学生時代に宅飲みをしながら、友人たちと何の中身もない話をして笑い合う。こんなに無駄で贅沢なことがあろうか。私達は画面に向かって意見みたいなものばっかり述べていないで、もっと無駄話をして、贅沢を味わうべきだ。とりとめのない無駄話には心を浄化する強い作用がある。そしてそれは、おどろくべきことに無料である。

タランティーノの贅沢な無駄話は、上記を超えて余りある幸福を私達にもたらす。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』もまたそうで、ここまで名前すら出さなかったがリック・ダルトンとクリフ・ブースのやりとりは、20時間だろうが30時間だろうが、永遠に続いて欲しいと感じる。劇中では、タランティーノが作りし言霊がスピーカーから発せられ、劇場を飛び交い続ける。

ちなみに、多くの方が指摘しているだろうが、タランティーノ流無駄話は『イングロリアス・バスターズ』以降、少々質が変わった。これは『デス・プルーフ in グラインドハウス』を含めた以前の作品と比べて無駄話/会話の内容が物語とリンクする割合が多くなったということで、一見他愛のない話し合いに思えても、後からガッツリと効いてくる。

無駄話はこれくらいにして、最後に少しだけ映画の内容に触れる

その「ガッツリ効いてくる感」を本作は引き継ぎ、さらにブラッシュアップさせ『イングロリアス・バスターズ』と『デス・プルーフ in グラインドハウス』の間に引かれた境界線をジグザグ走行するかのように、絶妙なさじ加減でライドしていく。タランティーノは自身が作り上げた「ジャンル」を、最新作によってネクストレヴェルに引き上げたと書いても、決して盛り過ぎではないだろう。

映画が終わるように文章も終わる。そして終わりのない無駄話もない。何度だって正式なタイトルを言いたい『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、1969年のハリウッドを舞台として、まるでタランティーノがハンドルを握るヴィンテージ・カーの助手席に座り、彼の解説つきで当時の(斜陽になっているとはいえども、光り輝く)映画産業の中心地をぐるぐるとドライブしていくような作品だ。観測者としてのタランティーノが描き出す1969年は好奇心と優しさ、憧れ、そして「間に合わなかった者」の哀しみに溢れ、同時に強い怒りも同居している。その感情に対して、彼は実に映画的なやりかたで、見事な落とし前をつけてみせる。想像力より高く飛べる鳥はいないのだ。

(文:加藤広大)

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