2021年09月26日

『ルパン三世 カリオストロの城』が改めて映画館上映!初公開された1979年12月は「こんな時代」だった

『ルパン三世 カリオストロの城』が改めて映画館上映!初公開された1979年12月は「こんな時代」だった


アニメーション監督に関する
ファンの認知度の高まり

日本映画界は1977年の夏に公開された『宇宙戦艦ヤマト』のクリーンヒットでアニメーション・ブームの口火を切り、1978年夏の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の大ヒット以降は、邦画の興行にアニメ映画が不可欠なものとなっていきます。

現に、1979年の日本映画興行成績ベスト1は『銀河鉄道999』(配収16億5000万円)でした。



ただし、この時期の日本のアニメーション映画は実写畑の監督をスタッフィングする傾向があり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの舛田利雄監督を筆頭に『劇場版 科学忍者隊ガッチャマン』(78)の総指揮・岡本喜八、『銀河鉄道999』の監修・市川崑、『劇場版 未来少年コナン』(79)の監督クレジットも宮崎駿ではなく、実際に再編集を司った佐藤肇になっています。

これらの中には実写監督の知名度を利用した“名前貸し”的なものもありましたが(舛田利雄監督は「ヤマト・シリーズの中で自分が完全に監督したと言い切れるのは『さらば宇宙戦艦ヤマト』だけだ」と語っています)、一方ではそういった風潮とは別に『龍の子太郎』(79)の浦山桐郎、『地球(テラ)へ…』(80)の恩地日出夫といった鬼才たちは、あくまでも自身の最新映画として作画スタッフと相まみえながら演出に臨んでいきました。

こうした中、ファンの間でも徐々に「アニメーション監督」の存在が注目されていきます。

現に『銀河鉄道999』は結果的に監修・市川崑ではなく、監督りんたろうに大きくスポットが当たることになりました。

(彼の名前はひらがなだったこともあって、TV「キャプテン・ハーロック」チーフディレクターの頃から子どもたちに覚え親しみやすかったというのもあったような気がしています)

1979年秋に公開された劇場版『エースをねらえ!』出﨑統監督の存在も、それまでのTVアニメ「ガンバの冒険」(75)「家なき子」(77~78)などでの独自の演出がもたらす人気と相まって、俄然クローズアップされていきます。

また、1979年に開始されたTVアニメシリーズ「機動戦士ガンダム」が徐々に盛り上がりを示していくと同時に、監督の富野喜幸(現・由悠季)も台頭。

今振り返ると、1979年こそはアニメーション「監督」の存在に多くの映画ファンやアニメ・ファンが気づかされた年だったような気もしてなりません。

その伝で申すと、宮崎駿監督の名も1978年のTVアニメ「未来少年コナン」での人気と実績を経て、1979年12月公開の『カリオストロの城』で一気に認知されたことも間違いのない事実でしょう。

初公開時の映画マスコミの作品評価も、第34回毎日映画コンクール・大藤信郎賞を受賞していることで、ご想像のつく通り。

そして本作の公開からおよそ半年後、TV「ルパン三世(PART2)」で宮崎監督は7月28日放送の第145話「死の翼アルバトロス」と10月6日放送の最終回155話「さらば愛しきルパンよ」を演出します。

このときの監督名義が“照樹務”だったことで、オンエア直後は「宮崎監督と同一人物か?否か?」で盛り上がったこともありましたが、この頃になるとコナン顔のルパンもすっかり受け入れられるようになっていました。

同人誌などでのクラリス人気も既にハンパではなくなってきていて、ひいては1980年代美少女アニメ・ブームの引金にもなっていった感があります。

そして宮崎監督自身はいくつかの作品の制作に携わりつつ、1982年より「アニメージュ」誌で漫画「風の谷のナウシカ」連載開始。

やがてはこれを原作に長編アニメーション映画『風の谷のナウシカ』(84)の制作をスタートさせていくのでした。

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原作:モンキー・パンチ (C)TMS

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